社会福祉法人風土記<27>旭川荘 中 児童院は重症児療育のモデル

2017年0911 福祉新聞編集部
◎芸術活動に力を入れた江草2代目理事長によって、今も絵画コンク―ルが開催されている

1957(昭和32)年に創立された医療福祉施設「旭川荘」(岡山市北区祇園)。「医療と福祉の融合」という理念は、初代理事長の川﨑祐宣は外科医、2代目理事長の江草安彦は小児科医、3代目理事長の末光茂は小児精神科医と、一貫して現役ドクターがトップを務めてきた歴史に表れている。

 

60年の歴史を見据えて、「初代の川﨑先生は創設者、2代目の江草先生は創業者、3代目の私は継承者です」と謙遜するのは末光茂現理事長(75)。

 

大地にレールを敷いたら、あとは若い人に運行を任せる。郷里の英傑・西郷隆盛を敬愛した川﨑はそんなタイプで、21歳年下の江草に施設の具体的な運営を任せた。

 

川﨑を「生涯の師」と仰ぎ、「川﨑イズムの伝道師」を自任していた江草安彦(1926~2015年)。岡山医科大の学生だった23歳でカトリックの洗礼を受け、児童相談所の嘱託医になってさまざまな子どもたちを目の当たりにするうちに、医学と共に福祉への使命感を強く抱いた。

 

強いきっかけとなったのが、旭川荘開設5年前の経験だった。県下で最も乳児死亡率が高かった岡山県北部、当時の八束村蒜山(今の真庭市)に泊まり込みの乳児検診に行った際、くる病の乳児や重度の障害児が多く、駆け出し医の江草には親を励ますことしかできなかった。「何か、受け皿を作らないと」との思いを強めた。

 

その後、旭川荘設立計画を知り、「ぜひ参加を」と決意を固めたが、恩師である岡山大医学部小児科教授が「そんな福祉の仕事は社会事業家か学校の先生か宗教家がやる仕事。医者のやる仕事ではない」と反対した。それが当時の常識だった。でも、江草の熱い決意は変わらず、初志を貫いた。

 

知的障害児施設「旭川学園」園長としてスタートした江草は〝創業者〟として旭川荘が掲げた3本柱の理念を次々と肉付けしていった。「医療と福祉の融合」とともに、「障害種別を超えた総合福祉施設」「地域密着」を一貫して目指した。

 

「開設10年の節目に重症児施設『旭川児童院』ができたのも地域の大きな支援の輪があったからです」と江草が感謝する裏には、こんな話があった。

 

若き日の江草が検診に行った蒜山地方で、重度の知的障害児を持つ母親や地域の愛育委員たちが「旭川荘に重症児施設を造ってほしい」と住民運動を起こしたのがきっかけだった。

 

だが県庁は重い腰を上げない。江草も「今の児童福祉法上の施設ではこのお子さんたちには対応できない。病院体制でないと受け止められない」と規則の壁を説明すると、「では病院を建てましょう。お金は私たちが集めます」と真庭郡愛育委員の女性たちが言い切った。

 

地元紙の山陽新聞社がこの動きに呼応して、「心身障害児に愛の手を」とのキャンペーン記事を長く連載して、支援の輪が県内から中四国に広がり、天満屋、中国銀行、両備バスなど地元有力企業も建設資金の募金に応じた。

 

街頭募金に立った地元発祥の宗教法人、黒住くろずみ教の青年部の僧侶たちは一般の人たちに重度障害児の現実を知ってもらうため、写真や映像を撮影しようと現地に行った。玄関先で涙ながらに断る親が大半だったが、3人の母親が「ありのままの姿を写真に撮ってもらって、一人でも多くの方に見ていただき、人さまのお役に立たせたいのです」とOKしてくれた。県内の映画館でその映像・写真が流れ、理解と支援の輪がさらに広がった。

 

4年にわたる市民運動の結果、浄財2500万円が集まり、総工費1億500万円で中四国で民間初の重症心身障害児施設「旭川児童院」は、1967年に開設、初代院長に江草が就任した。その後の旭川荘全体の中核施設となったばかりでなく、ここの取り組みが日本の重症児療育システムのモデルともなった。

 

ちなみに、旭川児童院開設5カ月後に、児童福祉法が改正された。新たに、「重症心身障害児施設は、重度の精神薄弱及び重度の肢体不自由が重複している児童を入所させてこれを保護するとともに、治療及び日常生活の指導をすることを目的とする施設である」という条文が加えられた。

 

医療法に基づく病院であると同時に児童福祉法に基づく福祉施設でもあることが明確になった。「地元密着」の旗を掲げる旭川荘は先取りしていた。

 

【網谷隆司郎】