社会福祉法人風土記<27>旭川荘 上 土台に連綿と続く医師養成の歴史

2017年0904 福祉新聞編集部
旭川荘資料館にある川﨑初代理事長の写真

「私は三粒の種子を蒔いた」。今では90施設を擁する、日本有数の総合社会福祉施設「旭川荘」は、一人の男が発したこの言葉から始まった。

 

川﨑祐宣(1904~96年)。1931(昭和6)年に岡山医科大学を卒業後、戦前から戦後にかけて岡山市内で病院を経営。当初は24時間診療、365日休みなしの「患者ファースト」を貫き、外科医の腕を振るった。診察料に関しては「ご遠慮なく相談してください」との木札を掲げ、生活困窮者に配慮をした〝赤ひげ医者〟だった。

 

そのドクターが、なぜ、福祉施設を始めたのか。

 

往診に行った先で、家の奥の座敷牢のような所でうずくまる障害者を目にした。夜になると世間の目をはばかるように大八車に乗せられて診察に来る患者の中には障害者が多かった。哀れみの視線は浴びても医学・治療の恵みには浴さない障害者の現実を目の当たりにしていた。

 

尊敬する故郷・鹿児島の英傑、西郷隆盛が好んで揮毫した言葉「敬天愛人」。それを生きる指針としていた川﨑の胸の中で熱く燃えるものがあった。

 

「私は生業を医に求めて病院を開き、多くの患者さんを得た。体や心に障害をもつ不幸な子どもと老人に接する機会が多く、当時の社会情勢からみて、私の力でなんとかしなければというやむにやまれぬ気持ちを抱くようになった」

 

1957(昭和32)年、岡山駅から北北東約5キロ、一級河川・旭川の河川敷に広がる約20万平方メートルの土地に「旭川荘」を開設した。肢体不自由児施設「旭川療育園」、知的障害児施設「旭川学園」、結核にかかった親と隔離する乳児施設「旭川乳児院」、これが蒔かれた三つの種子だった。

 

自らが法人の理事長に就いたものの、それぞれの施設のトップには若い医師を充てた。めいの夫で整形外科医の堀川龍一に療育園を、岡山医大の後輩で小児科医の江草安彦に学園と乳児院を任せた。

 

日本の福祉施設の創設者をみると、農村の有力者、篤志家、先進的な経営者、仏教・キリスト教など宗教家が大半で、医師自身が主導して福祉施設を創設した例は極めて少ない。それに救貧者の保護はしても治療は二の次、という施設環境が長く続いていた。

 

旭川荘は始めから「医療のある福祉」「医者のする福祉」を目指した。従来の福祉概念への挑戦であり、「福祉」と「医療」の融合という理念を掲げた。

 

当時の国の方針は、知的障害児は知的障害児だけ、肢体不自由児は肢体不自由児だけ、と「縦割り単独」の施設運営を旨としていた。旭川荘は厚生省の反対を押し切った。将来は老人施設もと、「障害種別を越えて総合的な福祉施設づくりを目指す」先進的な取り組みだった。

 

だが、一人の献身的なドクターの使命感だけで実現するほど甘くはない。「私は青年時代から、老後は理想的な社会事業をやろうと思っていました。(中略)むろん理解ある皆さんの協力なくて、私一人でできることではありません」

 

種を蒔いても土壌が豊かでないと芽が出ない。その点、岡山県は福祉の先進地、という土壌豊かな風土だった。

 

明治期に岡山孤児院を開設し「日本の孤児の父」と呼ばれた石井十次。日本最古のセツルメント、岡山博愛会を設立した女性宣教師、アリス・ペティ・アダムス。日本の感化事業の先駆者で今日の教護施設の基礎を築いた留岡幸助。日本救世軍を創設し結核診療や廃娼運動など数多くの社会事業に尽力した山室軍平――。今年創設100年を迎えた民生委員制度も、1917年に岡山県が独自に始めた済世顧問制度がルーツの一つとされている。

 

明治~大正~昭和にかけて、この「日本の福祉のパイオニア」たちが、全国に向けて福祉の先進例を発信したのが岡山県だった。

 

加えて、明治初めに開設された岡山藩医学館から岡山医学校↓岡山医学専門学校↓岡山医科大学↓岡山大学医学部と連綿と続いた医師養成の歴史が、医者の多い県という土台をつくった。そんな風土が川﨑を「医師がやる福祉」へと駆り立てた。

 

人徳か、人脈にも恵まれた。岡山医大の先輩で厚生省局長から岡山県知事に転じた三木行治や岡山大学医学部の支援を得たほか、地元経済界、宗教界、マス・メディアなど幅広い分野の人々が設立発起人に名前を連ねた。

 

2代目江草氏の肖像画と末光理事長

 

そして今年創立60年。理事長職も「医療福祉のパイオニア」の称号を冠せられる川﨑(1957~85年)から2代目・江草安彦(1985~2007年)を経て、3代目・末光茂(2007年~)と、すべて医師にバトンが受け継がれている。

 

 

【網谷隆司郎】