社会福祉法人風土記<26>慈愛園 中 日本初のアイバンク発足も 

2017年0814 福祉新聞編集部
昭和初めごろの慈愛園のクロンク幼稚園と園児たち

〝Gathering Up the  Fragments〟――慈愛園をつくった米国人宣教師モード・パウラス(1889~1980年)の自著『愛と福祉のはざまに』の原題だ。「散らされた人々を集め、ひとりも失われないようにする」。彼女の言葉である。日本語版に園田直(1913~84年)、橋本龍太郎(1937~2006年)の2人の厚生大臣経験者が感謝の序文を寄せた。

 

大正末から昭和の初め、慈愛園には20人前後の子が暮らした。福岡県大牟田の教会を通して託された生後間もない赤ちゃん、そして成績の良い子も。モードは男子は九州学院へ、女子は九州女学院(現ルーテル学院中学・高校)へ積極的に進ませている(ともに熊本市内にあるルター派の学校で現在は男女共学)。

 

1935(昭和10)年には初めて、東京の武蔵野音楽学校(現・武蔵野音大)、実践女子専門学校(現・実践女子大)へ女性の園生2人を送り出した。

 

良さを見つける

 

が、あるとき、少年がポツリと言った。「先生、神様は、ぼくに、良い頭をくださらなかったんですね」。

 

モードはこのとき、どの子も大切に扱うにはその子の良さを見つけることが重要なのだと、改めて気付かされたと記している。

 

「いたずらっ子には、『お尻パチパチよ』と面白い日本語で怒ってました。きびしいけど、思いやりのある人でした」。園の一角にある軽費老人ホーム「ケアハウス」(広田順一施設長、定員40人)で余生を送る女性(81)は思い出す。母親が子供ホームの保母だった関係で幼稚園から高校生まで園で成長した。1948年、園が熊本県荒尾市に開いた児童養護施設「シオン園」で一時働いたという。

 

軍靴の響きが迫りつつあった1934年。モードが探し求め、その後の発展を担う人物を迎えた。前回も触れた第4代慈愛園長、潮谷総一郎(1913~2001年)だ。彼は仕事のかたわら、治療を受けるようハンセン病患者の家々を説き歩き、列車で岡山県の長島愛生園へ患者を同行、入院させもした。

 

アメリカ人にもかかわらず、モードは第3回国際社会事業会議(1936年)へ日本代表団の一人として渡英している。しかし、時代の暗雲に飲み込まれ、日米開戦(1941年12月)の2カ月前、やむなく帰米。総一郎も南方戦線へ運転手として召集されていく。

 

モードに代わり全盲の石松量蔵牧師(1888~1974年)が園長職を預かった。日本福音ルーテル健軍教会(熊本市)を司る「世故苦労人」(内田守著『熊本縣社会事業史稿』)と紹介されている。子どもやお年寄り計約60人の糊口を国や県の補助金、教会資産の整理などでしのいだが、熊本空襲(1945年7月10日)で乳児ホーム、職員住宅を全焼。一方、太平洋の彼方ではモードが2人の在留邦人を自宅に引き取って世話をした。多難な時であった。

 

姉妹で再来日

 

敗戦。モードは米国人ジャーナリストのジョン・ハーシー著『ヒロシマ』を手に、妹エーネ(クロンク幼稚園設計者ならびに千葉県のベタニヤホーム創始者)と共に1947年1月、再び日本へ。街にあふれる戦争孤児。モードは再び慈愛園長になり、復員後、熊本県八代市で市立少年寮の寮長をしていた総一郎を呼び戻し、復興に取りかかる。

 

地元からの土地提供の申し出を受け、阿蘇の山すそ・上益城郡広安村の広大な土地に慈愛村(1947年、現・広安愛児園=別法人)、荒尾市にシオン園、そして大分県別府市に戦災孤児の別府平和園(1950年、別法人)と拡充していく。これらを含め乳児院、保育所3カ所、幼稚園2カ所、児童養護4カ所、老人、母子寮、そして県内唯一の盲ろうあ児施設「熊本ライトハウス」(1953年、熊本市東区)と計13カ所へ急拡大。財団法人から社会福祉法人へ衣替えしたのは1952年であった。

 

すばやくニーズに向き合う――熊本ライトハウスの始まりも全盲の子の受け入れからだ。55年春。登校中の中学生3人が市電にはねられ負傷した。「見えてさえいたら」。ライトハウスの初代園長を兼ねる総一郎は、近くに住む故・緒方昇医師(当時・国立熊本病院眼科医長)に相談。白内障などの手術を経て8人の視力回復をみた。成果は日本初の「熊本眼の銀行」(アイバンク、1956年)発足に、やがて「角膜移植法」(58年成立)へとつながっていく。

 

自立心を育てる

 

潮谷家は、園内に暮らした。長男愛一さん(77)=元・子供ホーム園長=も子ども時分から園児と寝起きを共にしている。ハンセン病の未感染児とも。むろん発症していない。

 

入所児として同じ釜の飯を食った西浦健輔さん(71)は「園長は出張のたびにお菓子をお土産に買ってきてくれた。楽しみだった」。やはり園育ちだ。短大を出て宮崎県内の石井十次ゆかりの児童養護施設で働いたあと古巣の子供ホームへ戻り、園長を経て現在は理事の立場にいる。

 

社会福祉法人「慈愛園」事務局長の白鳥哲さん(71)も園が長い。両親を早く亡くし、神戸から入園したのは小学校2年。大学を終え、熊本県庁に勤めたあと熊本ライトハウスの園長に迎えられた。

 

「園生活の良さ? 自立心がついたこと。掃除、炊飯、洗濯など全部やりましたから」。巣立った人が次の支え手になっていく。

 

そうした姿を見ながら、モードは総一郎に運営のすべてをゆだねた。宣教師の定年である70歳になった1959(昭和34)年、米国への帰途につく。余生をふるさとで過ごすために。

 

【横田一】