社会福祉法人風土記<27>旭川荘 下 種別超え、地域密着を目指す

2017年0918 福祉新聞編集部
子どもがリラックスできる外来スペース

重度の心身障害児は、言葉を発することも少なく、意思表示をするのが難しい。世間では、長らくそう考えられてきた。

 

果たして本当にそうなのか。日本では珍しく、1957(昭和32)年に医師である川﨑祐宣によって創設された社会福祉法人「旭川荘」(岡山市)では、医師=科学者の目が貫かれた。施設で保護・療育するだけでなく、科学の目で研究し本人の自立力と治療・ケア方法の向上とに役立てようという志向だ。

 

開設10年目にできた重症障害児施設「旭川児童院」に、脳に重たい障害を持つ男の子がいた。言葉が出ない、体も自由に動かない。でも時にクーッと涙を流す。「目にゴミが入ったのか」という周囲に対して、当時の院長で小児科医の江草安彦(2代目理事長)が「いや、本当に悲しがっているのかもしれん」と脳波を計るポリグラフで計測した。母親と担当の女性看護師がそれぞれ名前を呼び掛けると、母親の時の方が反応が強く出た。感情が科学的に計測できた。

 

母親が施設から出ていくのを見送るとき、抱っこしている看護師の体にいつもより重く反応した。コミュニケーション力を感じた。

 

「旭川荘は設立当初から、川﨑先生も江草先生も研究・教育の大切さを訴えていた」と話すのは、二人の後を受けた末光茂3代目理事長(75)だ。

 

重症児の〝人間らしさ〟をどう見つけ、どう引き出し、どう生かせるか。現場からどんどん研究テーマが生まれた。

 

岡山大医学部生だった末光は、学生クリスチャン連盟の講演会を企画。当時名前も知らなかった江草の、重症児医療に懸ける情熱にあふれた講演内容に胸打たれて、卒業前から旭川荘入りした。

 

一方、関西学院大大学院で心理学を専攻していた山村健(73)=後に旭川荘総合研究所長=は、パブロフの条件反射をテーマに生理心理学を専攻。指導教授から「2、3年、旭川荘に勉強に行ってきなさい」と送り出された。

 

ところが、当時の現場は医者も看護師も介護士も少ない人手不足状態。研究者の山村も重症児のおむつ替え、ご飯や入浴の世話をする毎日となった。

 

「でも、これが新鮮な経験で楽しかった。言葉のない無表情の重症児と向き合ううち、身振り手振りで緊張を解く姿から、これがこの子の表現なんだ、人として生きているんだと分かった。現場での実践と学問研究が一体でできた」と当時を振り返る。

 

山村健氏

 

既に研究・教育を重視する土壌があり、二人ともヨーロッパやアメリカに研究出張を許され、共に博士号を取得した。「年収に匹敵する旅費を出してもらった」と感謝する末光は、小児精神科医として自閉症児や行動障害児に光を当て、積極的に外来と在宅診療に乗り出した。それが現在の発達障害相談支援外来につながり、診察は6カ月待ちという。

 

現場での研究を実践に生かそうという取り組みは、旭川荘設立直後から始まり、職員同士の勉強会や研究発表会が開かれた。1968年からは研究年報が発行され全国に配布されている。1982(昭和57)年に旭川荘医療福祉研究所ができ、2年後から旭川荘医療福祉学会を開催するに至り、毎年優秀な発表者を表彰している。

 

一方、教育の面でも川﨑、江草は次々と先進的な取り組みを重ねていった。「専門知識と技量を持つ医療福祉職員を自ら育てよう」と旭川荘厚生専門学院を開設(1971年)。医療と福祉の融合を推進するため川崎医療福祉大学を設立(1991年)。

 

また、「人間味のある医師を育てたい」という医師・川﨑の信念から、旭川荘とは別に学校法人川崎学園を設立。川崎医科大学(1970年)、川崎医療短期大学(1973年)、川崎医大付属病院(同年)、川崎リハビリテーション学院(1974年)を立て続けに開設した。

 

「子どもから老人まで」という設立当初の理念も、特別養護老人ホーム「旭川敬老園」(1968年)を皮切りに、成人障害者向けの多くの施設が次々と造られ実現していった。重度化、高齢化、地域分散化などの時代の波に対応して、施設数が90に及ぶ、日本でも三指に入る規模の社会福祉法人になった。

 

広大な敷地内の石に「道終わりなし」と刻まれたレリーフがある。旭川荘を超えて、日本の社会福祉界に大きな影響を及ぼし、2015年に永眠した江草の言葉だ。

 

昨年7月、神奈川県立知的障害者福祉施設で19人が殺害、26人が傷つけられる衝撃事件が起きた。重度障害者を人間とも思わない一人の若者の犯行だった。その事件報道の際に引用された言葉がある。

 

滋賀県・重症心身障害児施設「びわこ学園」創設者で日本の「社会福祉の父」「精神薄弱の父」と呼ばれる糸賀一雄(1914~1968年)の「この子らを世の光に」である。「この子らに世の光を与えよう」でなく、「この子らの存在そのものが世の中にとって光そのものなのだ」という深い意味を「に」ではなく「を」一字で込めた言葉だ。

 

若き学究の徒時代にびわこ学園に派遣されたことのある末光は、今もこの言葉を重度心身障害者福祉の原点としている。

 

施設の規模の大小に関わらず、この思いが旭川荘内に、いや社会の隅々に行き渡る日が来るまで「道終わりなし」。石に埋め込まれたメッセージが岡山の地から発信されている。

 

【網谷隆司郎】