社会福祉法人風土記<25>名栗園 下 地域福祉に医療を加え貢献
2017年07月03日 福祉新聞編集部埼玉県飯能市に本部を置く「社会福祉法人名栗園」が誕生したのは1969(昭和44)年だった。小学校の廃校をリサイクルした特別養護老人ホームの開設で、一番大きな問題は資金繰りだった。初代園長で4代目理事長を務めた石井岱三氏(享年81歳)は、法人の記念誌で次のように述懐している。
「『資金は全くない、友人なら多くいる』を信条としてきた私も、この時ぐらい困ったことはなかった」「女房(芳枝夫人)の父親から100万円を借りた。友人たちが100万円近くの金を集めてくれた」。地元の銀行からの融資に、出入り業者には日用家具や道具といった資材の納入から1年後の支払いを承諾してもらった。
法人と名栗園開設の許認可に向けた、埼玉県と旧厚生省との交渉と並行して、改築工事が行われた。廃校になった校舎を老人ホームとして使うためには浴室やボイラー室などの新設も必要で、学校の調理室を給食設備に改造した。教室は入所者の居室に、黒板は業務の伝達用に使われた。
施設職員の採用と介護教育も同時に進められた。法人認可の半年前から職員たちは介護の勉強をしながら、各部屋の清掃とガラス拭きをした。法人の塩野裕理事(69)は「本当にみんな何も知らない。教室と校舎の木の床を豆腐のおからを布袋に入れ、来る日も来る日も磨いた。それをやったことで、施設に愛着を持ったようです」と当時の様子を話してくれた。
69年4月に開園式があった。正式認可ではなかったため、老人福祉法に基づく、老人委託事業としてのスタートだった。職員の多くは地元の家庭の主婦。「山の中の小さな村。なんでうちの女房が、よそに行って宿直するんだという時代でした。旦那衆を集めて、酒を飲みながら、説明会をしました」と塩野理事は笑いながら話すのだ。
開園当初50人だった定員は、新館の増設など、段階的に100人にまで増えていく。廃校を利用した名栗園は老朽化に伴い、97(平成9)年に約5キロ離れた旧名栗村の中心部に移転改築。名前を「総合ケアセンター太行路」(定員100人)に改称した。塩野理事は「すごい引っ越しでした。最初にスチール製の重たいベッドを運び、100人のお年寄りを新しい施設に移すのに、地域の人やボランティアが助けてくれました」と当時を振り返る。
開業医だった父親の背中を見て育った石井氏は地域医療にも尽力した。名栗園がスタートした69年に「名栗園診療所」を開設する。「お年寄りを医療と介護で支えることを考えていた」という石井氏は「当時、村内の医療体制が薄く、地元の人にも医療の手を、と考えた」(記念誌)。「渓谷の未舗装の狭い道を、埼玉医大から医師を乗せて往復する日々が続いた」ようだ。診療所は97年にオープンした「太行路」に移転し、いまも地域医療に貢献している。
名栗園から出発した法人は、現在までに飯能市内に4カ所、同じ埼玉県内の八潮市、川口市、さいたま市岩槻区でも、施設の運営受託や、指定管理も含め、地域福祉に貢献している(表参照)。この間に石井氏は74(昭和49)年に埼玉県老人福祉施設協議会、93(平成5)年には全国老人福祉施設協議会の会長としても活躍した。
この石井氏の理念を受け継いだのが、5代目になる池田徳幸理事長(54)だ。石井氏の長女、里江子さんとの結婚を機に、「福祉の道」に入った。法人に奉職して、今年で23年目になる。「八潮市の『やしお苑』が最初で、(法人傘下の)特養すべての施設長をしてきた。職員の顔を一番知っているのは私だと思います」と池田理事長。
石井氏の方針で、池田理事長はお年寄りの入浴介助も経験した。「週に2回やりました。いまは機械浴が当たり前になっていますが、あの当時は自分の手で、体を使っての介助でした。裸の付き合いというのか、スキンシップだったと思います」。介助の経験がいまに生かされているとも話すのだ。「介護職員の大変さ、苦労を理解することが出来ました。職員を大事にすることにもつながったと思います」
飯能市芦苅場にある「介護老人福祉施設 あしかり園」は、初冬の完成に向け、増改築工事が進められている。80人の定員が112人に増える。当初30人で始まった法人傘下の定員は、いまでは500人(短期、デイサービスを除く)を超えるまでになった。「人を人として介護する」。石井氏の座右の銘でもある、法人の基本理念は、いまも脈々と受け継がれているようだ。
【澤晴夫】