社会福祉法人風土記<24>伊賀市社会事業協会 上 戦後、故郷に救いを求めて

2017年0605 福祉新聞編集部
左から西岡時彦顧問(第5代理事長)、森下達也名誉顧問(第4代理事長)

三重県伊賀市は、2004(平成16)年の〝平成の大合併〟で、上野市と5町村が合併して誕生。現在人口9万3363人、世帯数3万9806となっている。滋賀、京都、奈良に隣接、四方を山に囲まれた盆地の中にある。山裾の朝屋という所に社会福祉法人伊賀市社会事業協会の法人本部と「梨ノ木園」など老人福祉施設4カ所、障がい者福祉施設1カ所がある。そして上野寺町に点字図書館、盲人ホーム、「かしの木ひろば」。児童福祉施設は「曙保育園」、「ゆめが丘保育所」をはじめ市内25カ所を運営している。

 

その起こりは戦前、戦中からあった保育所を引き継ぐことと、戦後の混乱期に生まれた母子家庭の存在であった。満州(現在中国東北部)大連から筆舌に尽くしがたい引き揚げ体験を持つ森下達也名誉顧問(85・第4代理事長)は語った。

 

「度重なる大阪や周辺都市への大空襲によって焼け出された多くの母子家庭などが故郷に救いを求めて帰って来たのです。夫が戦病死や空襲で亡くなったり、シベリアに抑留されたりして、母子だけが引き揚げてくるなど事情はさまざま。そこで1948(昭和23)年時の市長、商売をされている人、民生委員(方面委員の後身)の人たちをはじめ、市民の有志いわゆる民間人が立ち上がったのです。衣食住、仕事をどうするのか。そのために任意団体・上野市社会事業協会が創設され、市民に募金も呼び掛け2年後の1950(昭和25)年には、経済的に保護が必要な人たちのために寺町に総合授産場を造りました。が、社会情勢の変化と経営上の課題から野村熊太郎初代理事長が経営を市に移管しました」。

 

その後、淵田五郎・第2代理事長、現在の協会の基礎を築いた中森勉・第3代理事長と続くが、両者の交代年の1958(昭和33)年に、日本の社会福祉事業の大転換期を象徴する出来事が起きた。

 

そそれは戦後初の国際会議となる第9回国際社会事業会議であった。参加国は42カ国を数え、会場は産経会館、久保講堂(寄贈・霊友会、現新霞が関ビル)が充てられた。その席上「いまだ国内に母子家庭が百万世帯を超えている」と政府首脳が発言したことが、『公式会議議事録』(1959年刊)にある。三重県から参加の福祉関係者名も記載されている。

 

中森勉・第3代理事長

 

ここから始まる中森理事長時代の協会活動は、活発さを増し1961(昭和36)年〜63(昭和38)年頃には、市から保育所10カ所の運営委託を要請されるに至る。協会の努力に信頼が寄せられたからである。

 

昭和30年代は農業も盛んで、農繁期には寺や有志による無認可の託児所も村のあちこちにあった。市街地でも女性が外で働くようになり、勢い保育所設置の要請が増えた。2005(平成17)年に就任した西岡時彦顧問(69・第5代理事長)は例を挙げて説明した。

 

「1973(昭和48)年、緑ヶ丘町にみどり第二保育園を開園。特別保育事業として一時保育を始めようとしたのですが、資金がなく、他の施設にある不用になったプレハブを移して使うことに。大変でした(笑)。その努力が報われ助成を受けられることになったのです」。

 

ところで、現在の全国の保育所の状況を見て、森下名誉顧問は「社会福祉法人の経営者は〝公平無私〟の精神で非営利としての福祉に専念することです。この法人は同族性を全く持たず、民間人として非営利奉仕に徹するという、往時の基本理念は今日まで一貫していると思います」と強調し、続けて「私たちが決して忘れてはならないのは、1946(昭和21)年から52(昭和27)年まで続けられた救援物資『ララ物資』のことです」と語った。

 

その「ララ物資」とは、アメリカの救援公認団体「ララ−LARA」から、日本の当時の金額で400億円超に相当する食料、衣料、医薬品などがもたらされた物資のこと。詳細は『ララ記念誌』(厚生省・1952年刊)に。特筆すべきことは、海外在住の日本人、日系人の援助が全体の2割を占めていたこと。その海外活動は『救済物資は太平洋を超えて』多々良紀夫著(1999年刊)で明らかにされた。三重県立図書館の調査協力によって、伊賀市に「ララ物資」が届いていたことを証明する貴重な記録が、『新居小学校百年のあゆみ』(2004年刊)に残されていることが分かった。

 

【高野 進】