社会福祉法人風土記<23>鳥取こども学園 中 震災を機に新天地で再起

2017年0522 福祉新聞編集部
藤野武夫(左)、とり夫妻

1943(昭和18)年の鳥取大地震で鳥取育児院は再建が絶望的な被害を受け、翌年、現在地に移転した。

 

地震発生時、幼児の世話や炊事手伝いをしていた育児院出身の男性(当時16歳)は、もうすぐ2歳になる藤野興一・現学園長(75歳)を抱っこして外へ逃げたという。

 

その興一園長の父・藤野武夫(1909~1989)と、母・とり(1909~1983)は、養育主任として育児院移転の土地探しに奔走する。

 

20軒の地主を回り、粘り強く交渉を進めた。畑に入ると地主がこん棒を持って追いかけてきたこともあった。土地を手放すことは、よほどのことがなければ、ありえない時代だった。

 

■広く明るい場所

 

苦難の末に地主の理解を得て手に入れた新天地は、創立者・尾崎信太郎(1871~1937)が夢見た「広く明るい場所」だった。

 

周辺に家は2軒あるのみ、土地は起伏の続く桑畑で「馬の背」と呼ばれた所だった。今も学園の入口に架かる馬の背橋の名に当時がしのばれる。

 

昭和30年の学園全景。馬の背橋が見える

 

広大な敷地だったので移転後、藤野夫妻は職員・子どもたちと桑を抜き、地面をならし畑にしてサツマイモやカボチャを植えた。県内外からの孤児らで育児院はあふれ、経営は困難を極めるが、育てたイモなどで飢えをしのぎ食糧難の時代を乗り切り、戦後衣服はララ物資でまかなった。

 

2軒のうちの1軒は園芸研究所を経営しており、「心のすさむ時だからこそ植樹・花壇造り・野菜作り等の作業は情操教育にもよい」と藤野夫妻への協力を惜しまなかったという。

 

鳥取育児院は戦前、救護法による育児院だったが、1948(昭和23)年に児童養護施設の認可を受け、翌年には「鳥取こども学園」と改称。理事長に尾崎悌之助(1910~1986)、学園長に藤野武夫、2年後に開設した保育所「鳥取みどり園」は藤野とりが園長に就任する。1952(昭和27)年に社会福祉法人となり次の時代の幕が開く。

 

話は戻るが創立者・信太郎は、1908(明治41)年に東京で開催された内務省主催の第1回感化救済事業講習会に参加するなど、各地の講習会や施設視察に出向き研さんを積み重ね、家庭的な雰囲気の中で子どもたちを養育していこうという養育方針を確立した。

 

「明治41年10月、改築をなし、家族舎4棟、手工場、監督舎、復習室、集合室、浴場、炊事場、事務室、板倉等の(計)12棟となし、家族組織となし居れり」(『鳥取新報』)。子どもたちを性別、年齢別に「第1家庭」から「第4家庭」の4家庭に分けて、各家庭に保母を一人ずつ置いたとの記録が鳥取こども学園90年史に残る。

 

しかし、資金難や管理面あるいは入所児童の減少が原因か理由は定かでないが、1929(昭和4)年には小舎養護から創設時の寄宿舎制(大舎)に戻している。その時、子ども数は15人だった。

 

1947(昭和22)年の児童福祉法制定以降、急速に諸制度の確立をみて子どもたちの生活向上が図られていく。昭和30年代に入るとホスピタリズム論争が盛んに行われ、脱施設化、里親養護促進、小舎制への移行など、児童養護施設の質的変換が叫ばれるようになった。終戦直後と現在では子どもと家庭を取り巻く環境が大きく変化しており、「『家庭が最良』であるとは言い難い状況にある」との意見もある。

 

ともかく、児童養護施設の質的向上について必要性を強く感じていた同学園は、本格的に大舎制から小舎制への移行を決断する。

 

■職員確保、質の向上

 

最初の小舎制への移行は1961(昭和36)年、小舎・家庭舎を建築。小舎制の実現に向けては職員の確保と質の向上、管理と連携など相当高いハードルをクリアしなければならなかったが、学園が培ってきた長い歴史と職員たちの理解と献身が実を結び、約10年かけて小舎制への完全移行が実現する。敷地内に6ホームが造られ、現在、市内に地域小規模児童養護施設を3ホーム持つに至っている。

 

 

桜並木から見た現在の学園

 

2006(平成18)年には乳児院「鳥取こども学園乳児部」が3ホームできる。これもすべて小舎制であり、各ホームに一般家庭と同じ風呂があり、職員は乳児と共に入浴している。「子どもたちが『生まれてきて良かった』と自信をもって歩めるよう寄り添っていきたい」と要覧でうたう。

 

【荻原芳明】