社会福祉法人風土記<21>みねやま福祉会 上 戦後、町医者夫婦が始めた乳児院

2017年0306 福祉新聞編集部
乳児院開設当時の櫛田夫妻

京都府の北部、丹後半島の付け根あたりから日本海に接して広がる京丹後市、〝丹後ちりめん〟でも知られるこの地に社会福祉法人「みねやま福祉会」(櫛田匠理事長)はある。旧峰山町に法人本部を置き、幅広く事業を展開している。

 

法人の歴史は乳児院から始まる。乳児院の創設者は現理事長の父・一郎(1921~1974)。一郎の父・国蔵は、一郎が生まれた翌年、大正11年に産婦人科医院を開業、やがて長男だった一郎は京都府立医科大学に進み内科・小児科医として大学の医局に勤務する。戦時中は軍医中尉として勤務し、戦後は引揚者支援などの任務にあたったが、公職追放され、解除後は医局に戻った。

 

このころプロテスタントとして洗礼を受け、医局勤務と布教活動の傍ら、恵まれない子どもたちの支援活動に力を入れていた。

 

京都市内の教会付属保育園の建設を手伝っていた時のことだ。ある日、建築現場に、男たちに交じって口に長いくぎを数本くわえて力強く柱にくぎを打ち付けている女性がいた。その〝男勝り〟が、個人洋裁店を営んでいた邦子(1927~1998)。仕事の合間に奉仕活動に来ていたのだった。汗して働く邦子の姿に一郎は心を強く動かされた。出会った矢先の1949(昭和24)年2月、父の国蔵が56歳の若さで急死した。このため二人は翌3月に結婚、峰山町に戻り櫛田医院を継ぐことに。

 

櫛田医院

 

■〝肝っ玉母さん〟

 

「今で言う電撃結婚ですね。父に聞かされたのろけ話のようなものです」と一郎の次男・匠理事長(65)は語る。

 

邦子は、後に地元のみならず、全国の乳児院関係者から〝乳児院の肝っ玉母さん〟と呼ばれることになるが、その片鱗を彷彿させる話だ。

 

エピソードには事欠かない。豪胆でもあった。

 

邦子は岡山県倉敷市の生まれ、敬虔なクリスチャンの家庭で育ち幼児洗礼を受けた。戦時中の女学校時代、水島軍需工場に動員されるが、戦争も末期、仕事らしい仕事はなく暇を持て余す時間が多くなっていた。

 

そんな時だ。「何をおしゃべりしている、この非国民が!」と憲兵の声が飛んだ。

 

友人が静止するより早く「さぼっているわけじゃない、仕事がないからこうしている。怒鳴るより仕事をもってきたらどうだ!」と邦子は言い返していた。邦子の正論と迫力に返す言葉なく憲兵は立ち去ったという。

 

この話には続きがある。終戦直後、工場長が「中にある物すべて、お前の好きにしていい」と言って工場の鍵を邦子に渡した。邦子は信頼される人でもあった。

 

終戦後、全国では戦災孤児・引揚孤児らは12万人強(厚生省調査、1948年)ともいわれ、京都市内でも鴨川に架かる橋の下などに生まれたばかりの赤ん坊が捨てられ、くず拾いなどで生活する母子らが住みついていた。

 

「この子らを救いたい」という一心で、キリスト教者として人生の奉げ方も同じだった夫妻は、櫛田医院を継ぐと同時に、乳児院開設に向けて奔走する。

 

医院を継いだ翌1950(昭和25)年11月、認可が下り、京都府下初の乳児院「峰山乳児院」が誕生。乳児院長が一郎、邦子は看護婦補助として夫妻の「私たちの願い」の第一歩が始まる。

 

乳児院には、捨てられた赤ちゃんや混血児がいた。施設に子どもを預けてから行方不明となる母親もいた。
二人ともまだ20代の若さだった。

 

開設当初の乳児院の子どもたち

 

■おむつは川で洗濯

 

櫛田医院は産婦人科から内科・小児科へと看板を変え、必要のなくなった入院用の部屋を乳児院に改築した。乳児院は、調理は2基のかまどと七輪一つ、暖房も火鉢と湯タンポだけ、そんな状況で始まった。

 

岡田とし子さん(昭和25~58年勤務)は「開設した年の12月から勤務しましたが、驚きました。おむつは山のように積まれ、それを洗うのにタライが一つだけ。当然はかどりません。思案の末、おむつを背負かごに入れ、川に洗いに行きました。今と違って川の水はきれいで水量も多かった。半年くらいは川に洗濯に行っていました。まるで桃太郎のおばあさんのようでした」と記念誌に書いている。

 

乳幼児の衣服は、ララ物資(戦後アメリカから贈られた救援物資)の仕立て直しをはじめ、すべて邦子と職員が縫った。邦子は職員のエプロンも作った。匠理事長は「母の仕立てのスピードはものすごく速かった」ことを鮮明に覚えている。

 

【荻原芳明】