社会福祉法人風土記<7> 三愛荘 上 結核療養者の社会復帰目指す

2015年1105 福祉新聞編集部
「三愛荘」創立時の高橋薫

 広々とした大海原に注ぎ込む大河も、その源流にさかのぼれば一滴の湧き水から始まる。群馬県渋川市にある知的障害者の支援を旨とする社会福祉法人「三愛荘」の一滴は、一人の若い女性の献身だった。半世紀以上も前にこの地に落ちた“一粒の麦”から多くの施設が芽生え今日に至っている。

 

 1937(昭和12)年、まだ22歳の若さで当時「不治の病」とされていた結核に侵され、群馬県北群馬郡榛東村(当時)の実家の離れで長く孤独な日々を送っていた高橋薫(1915~1966年)が、その人だ。

 

 30歳で終戦を迎えた後、「あと3年の命」と医者から宣告されながら、安静療養のおかげで体重40キロ、しかも片方の肺を失う病身にもかかわらず小康を保ち続けた。

 

 死の不安と向き合ううちにキリスト教に入信。「生きているうちに世のため人のためになることをしたい」との情熱を燃やし始めたころ、著書「死線を越えて」で有名だったキリスト教社会運動家、賀川豊彦と講演会で出会って感銘を受け、1952(昭和27)年から社会事業に身を投じた。

 

 では、何をやるか。自らもそうであった結核療養者。当時、退院後は放置状態の人が多かった。そこでアフターケアの施設建設を目指した。

 

 1954(昭和29)年、渋川市六本松(当時)のリンゴ畑など農地2400坪を買い取り、その真ん中にポツンと建つ開拓小屋に一人で住み始めた。ここが今の三愛荘の現住所だ。

 

 「結核患者の社会復帰に備えて、体力を涵養し、職業を身につけ、生活基盤を築くための施設を!」

 

 これが理念だった。この種の施設は全国的にも例がなく、制度も確立していなかっただけに、先進的な取り組みだった。

 

病身を押して募金

 

 地元の素封家の長女だったとはいえ、資金集めは難儀を極め、「1戸10円の寄付を!」と病身を押して和服姿で周辺を募金行脚。「ラーメン1杯も食べられなかった」と空腹に耐えながらも、2年間で157万円の資金を集めた。

 

 実父が言う「子どもの頃から勝気だけど面倒見のいい子」という性格に加えて、キリスト教の使命感が後押ししたのだろう。

 

 努力が実り周囲の理解も広がり、1955(昭和30)年にようやく患者20人収容の「三養寮」が完成し、翌年には「財団法人群馬アフターケア協会」の設立が認可された。

 

 施設の名前は「三愛荘」と決まった。牧師として長年、高橋薫の相談役であり初代施設長に就任した栗原陽太郎牧師の提案だ。「天を愛し、地を愛し、人を愛す」の三愛だ。栗原は思いを深くこう込めた。「この事業が神の愛を貫き、神の摂理と啓示によって導かれるようにと命名した」

 

 結核患者の社会復帰という先進的な取り組みは少しずつ前に進み始めたが、それより時代の歯車のほうが早かった。長年「不治の病」と言われてきた結核だったが、戦後アメリカからの特効薬や医学の進歩のおかげで、1955年から患者数の減少、早期退院の例が急増してきたのだ。

 

 需要と供給のミスマッチが三愛荘でも論議され、当時理事の一人で結核療養所榛名荘を経営していた原正男が「他の福祉事業に転換してはどうか」と提案。具体的には、当時需要の声が多かった精神薄弱者施設に、と理事会は全会一致で決定した。

 

 国の政策も転換期だった。1960年には精神薄弱者福祉法が制定、施行された。児童だけでなく、新たに十八歳以上の成人を入所させて、更生に必要な生活指導や職業指導を行い、社会自立させる、という目的が打ち立てられた。

 

創立時の「三愛荘」(昭和30年)

創立時の「三愛荘」(昭和30年)

 

精神薄弱者の援護に

 

 この流れの中で、翌1961年に社会福祉法人愛護会の設立が認可され、三愛荘の名前は変わらず、新たに「精神薄弱者援護施設」として再出発した。現在の施設の歴史の起点となった。

 

 三愛荘創立者の高橋薫は、これまでの結核患者とは異なる新たな入所者に対して「憐みの対象としてではなく、むしろ神から遣わされた神の子と信じている」とキリスト教の見方をしており、自らの観察から「素晴らしい人間性と芸術的能力を持っている人が多い。職員の指導は彼らの中に宿っている能力を引き出すことです」と使命感を燃やしていた。

 

 さらに、得意の和歌で「おさなきは稚きまゝにけがれなき神が創りしこの人間像」と詠っている。

 

 だが、福祉という言葉は同じでも、結核患者の復帰支援事業と、精神薄弱者の援護事業とは、現場作業の共通点はそう多くない。入所定員は40人に対して、職員は指導員6人、栄養士1人、調理師1人、事務員2人の少人数体制。時代の趨勢や要請とはいえ、知的障害者のケアについての専門知識を持った職員があまりいないまま、手探り、模索のスタートだった。

 

 

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