水と土、大気に支えられて〈コラム一草一味〉

2025年1004 福祉新聞編集部

潮谷義子 社会福祉法人慈愛園 相談役

8月を迎えるたびに思い出すことがある。わが家の絶対君主のような祖父がラジオを聴いた後、地面に伏して号泣した。何か大変なことが起きたとこども心に不安を覚えた。

田舎に暮らす私は、ギブミーチョコや鼻の高い外国の人と出会うことは全くなかった。しかし、ここにも戦地から帰還した人、外地から引き揚げてきた人、縁を頼って新たな居住者になった人々が増えた。今でも「あの時代、職なく食なく物なく病いありだった」と回顧する。

私の夫は、父親出征、母は中尉の位を持つ従軍看護師、本人は小児結核で祖母宅で暮らしていた。1948年児童福祉法が施行された時、両親は福祉施設職員であった。戦災孤児、浮浪児らで定員はあっても無きがごとしであった。

感染の可能性を持つ結核児の夫は園内の小さな室に病臥し、自分でニワトリ、ヤギを養い、その卵とミルクを口にし、余った分を近所に売り歩いたという。

今日、ガザ地区の幼な子たちが飢餓に苦しみ、痩せ細った姿に、かつての自分自身が重なり切ないと話す。病からやっと解放された時、彼は「ハンセン病」と診断された親と子が分離の上、施設入所児となった時には彼の室で一緒に生活をするのが常であった。「戦争のあるところに人権はなく平和はない」と彼は口にする。

今年の8月9日夜、夫と私は福山雅治さん作詞・作曲「クスノキ」5000人の大合唱に耳を傾けた。長崎市の山王神社のクスノキは、原爆の熱線を受け、黒い雨にも打たれた。しかしクスノキは倒れず、水と大気に支えられて大地に根を張り再び緑なす葉を繁らせ枝を伸ばした。福山さんは戦後80年の広島・長崎の歩みを重ね、「どんなに力弱く小さくても、わが魂はこの土地に根差し葉音で歌う生命の叫びを」としめくくった。

私の恩師、故吉田嗣義は「生きることは願いを持つこと」と口にしていた。改めて被爆80年の節目を迎えた日本は、故山口仙二さんの心の底からの叫び「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」を胸に、日本が核兵器禁止条約に署名・批准する年となることを願う。

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