社会福祉法人風土記<25>名栗園 上 小学校の廃校を借りスタート
2017年06月26日 福祉新聞編集部埼玉県の南西部に位置する飯能市は、古くから「林業と織物のまち」として栄えた。東京メトロと相互乗り入れする西武池袋線沿線で、都心から約50キロ圏内にある。交通のアクセスがいいことから、首都圏の「近郊住宅都市」として発展してきた。
この飯能市に本部がある「社会福祉法人名栗園」が産声を上げたのは1969(昭和44)年7月のことだった。いまは飯能市に編入された旧名栗村の小学校の廃校を借り受けて「特別養護老人ホーム名栗園」としてスタートした。
名栗園の初代園長で、4代目の法人理事長だった石井岱三氏(今年1月19日、81歳で死去)が、苦労に苦労を重ね、法人と名栗園の設立に尽力した。その足跡を5代目になる池田徳幸理事長(54)と、塩野裕常務理事(69)のインタビューに、法人の記念誌「みんなと共に30年」(1997年刊)と「おかげさまで40年」(2008年刊)からたどってみた。
石井氏は飯能市の開業医の家に生まれた。兄弟姉妹8人の7番目。日本医大で2年間学んだが、日大工学部を卒業した。長兄の経営する旭ケ丘病院(埼玉県日高市)の集団検診のリーダーとしてレントゲン車に乗り、県内から関東近県の事業所を巡回した。
長兄が理事長で、県内第1号となる特別養護老人ホーム「清雅園」(日高市)の開設=1967(昭和42)年=にも関わった。「そこでお年寄りの世話をしたことが、この世界に入るきっかけでした。肌に合ったんですね」(40年史)と振り返っている。
「開業医の家に生まれ、いろいろな人が出入りしていたみたいです。父親がお金のない人でも往診をする。診療費の払えない人が野菜を持ってきたということもあったようです。地域医療に尽くしてきた、そういう父親の背中を見てきたことも、福祉の道に進んだことにつながったのではないでしょうか」と塩野常務理事は話す。
石井氏が、お年寄りのための施設を開こうと思い立った時、白羽の矢を立てたのが、集団検診で県内を回った時に知った旧名栗村立西小学校だった。1961(昭和36)年に完成した鉄筋コンクリート2階建てに、普通教室六つ、特別教室三つと、講堂兼体育館に給食室まで完備したデラックスな校舎だった。児童数の減少に伴う統廃合で、わずか6年で廃校になった。いまは空き教室や、余裕教室があるが、あの当時は考えられないことだった。
廃校の使用許可を求めて、旧名栗村の役場に通う日々が続いたが、一筋縄ではいかなかったようだ。「村の財産を借りるのが、これほど難しく、時間のかかるものとは思っていなかった」と、石井氏はその当時のことを述懐している。
旧名栗村に「校舎使用認可申請書」を提出したのが68(昭和43)年5月。9月になって建物の賃貸借契約が成立すると、11月に法人の設立認可申請書を埼玉県民生部に提出することになる。「特別養護老人ホーム名栗園」と命名された施設と、法人が認可されたのは翌年の7月だった。30年史の中に掲載されている「名栗園沿革」に、その経緯と、苦労の様子が詳述されている。
「この社会福祉法人は建物が借り物であるため、基本財産として1000万円を積みなさい」「老人をあんな山の中に連れて行くのに、舗装していない道では困る」というのは埼玉県や当時の厚生省からの指摘だった。「言うことは簡単だが、目の前が真っ暗になった。途方に暮れ、落胆のあまりに、もはや動く力もなくなっていた」と石井氏は書き残している。
そんな状態の中で、石井氏が法人の初代理事長として就任を依頼したのは、飯能市や旧名栗村が選挙区の旧埼玉第2区(中選挙区)選出の小宮山重四郎・衆院議員(1927~1994)だった。
小宮山議員は当選11回、福田内閣時代に郵政大臣として入閣した。法人の許認可がなかなか進まないことに業を煮やした石井氏は「財産のない脆弱ぜいじゃく法人。そこで、理事長を小宮山代議士に、県議を理事にお願いして、強化した」と振り返っている。今年のはやり言葉になった忖度を期待してのことだったのだろうか。
廃校に通じる県道の舗装は、埼玉県で国民体育大会=1967年=が開催されるのを機に、全県道が舗装されることが決まり、事なきを得ることになる。名栗園の開園に向け難題に次ぐ、難題の中で、一番大きかったのは資金繰りの問題だった。
【澤晴夫】