「うめぇなぁ!」

2022年1014 福祉新聞編集部

金治さんの嚥下障害

 金治さんは88歳。パーキンソン病の既往があり、脳梗塞も発症して嚥下障害が目立つようになりました。誤嚥性肺炎を繰り返しては入院。全身の機能が低下して経口摂取が困難となり、栄養確保のため胃瘻が造設されました。リハビリを続けましたが、経口摂取は難しく、ほんの2、3口のゼリーの摂取が限度でした。

食べられずに逝くなんて……

 そんな状態の金治さんを見かねて、奥さんの直子さんは「何とかならないか」と何度も私に相談しました。私は「常に発熱があり、誤嚥を繰り返している状態で食事は難しい」と説明しました。

 

 ある日のこと、直子さんは「このまま主人が何も食べられずにいるのはかわいそう。おいしいものを食べるのが生きがいだったあの人が、このまま逝いってしまったらどうしよう……」と涙を浮かべました。私が「奥さんの気持ちは分かるけど、そんな簡単なものじゃないんだ。僕らもつらいんだ」と言うと、直子さんは「ワーワー」と大きな声を出して泣き出してしまいました。

 

 私は泣いている直子さんを見ながら、「私たちの言っていることは果たしてもっともなことなのだろうか? 金治さんに長く連れ添った直子さんには、どう説明してもそれを納得できない強い感情があるのだ」と感じました。

鉄火巻き

 「もう泣かなくていいよ。何か食事らしいものを考えようね」。私はそう言って、直子さんに金治さんの病室で待つように言いました。病院の売店でマグロのすり身を巻いた鉄火巻きを買い、病室に向かいました。

 

 病室でパックの包みを開けたらプーンと寿司の香りがしました。私は鉄火巻きのすり身の部分を小さなスプーンで取り、しょうゆを付けて金治さんの口に入れました。

 

 わずかな量でしたが、金治さんは「モグモグ」と味わい、コクリと飲み込みます。

 

 「うめぇなぁ!」と金治さんが答えました。「あんたおいしい?」と直子さんが聞くと金治さんはうなずきました。「主人はお寿司が大好きなんです」。直子さんに笑顔が戻りました。

 

 翌朝、嚥下訓練担当の言語聴覚士(ST)にこのことを話すと「先生、私も金治さんには何か食事らしいものを食べてほしいと思っていました」と笑顔が返ってきました。

 

 それを機に金治さんには〝トーフ味〟〝茶わん蒸し味〟〝焼き鳥風味〟などの嚥下食を試みましたが、あまりおいしそうにはしてくれませんでした。

 

 そんな食事を提供し始めて数日後、金治さんは肺炎を発症し、食事はいよいよストップとなりました。

あの言葉が忘れられない

 やがて金治さんの肺炎は軽快し、自宅近くの療養型病院に転院していきました。

 

 転院後も、直子さんは私の診察室によく顔を出し、今入院している病院ではまったく口から食べさせてくれない、と嘆いていました。寝たきりの状態で衰弱も進んでいるようでした。それから間もなく、金治さんは肺炎を悪化させて他界しました。

 

 葬儀が終わった数日後、直子さんが私の診察室にやって来ました。丸くなった背中が一段と小さく見えました。

 

 「先生ねえ、主人は食べられなくなってかわいそうだったけど、あの時『うめぇなぁ!』と言ったでしょ。あの時の言葉が忘れられないんです。うれしかったでしょうねえ」と話してくれました。仏壇には時々、鉄火巻きを供えるそうだ。

 

 「あんたおいしい?」 「うん」

 

 あのときの二人の笑顔が忘れられない。

 

筆者=稲川利光 令和健康科学大学リハビリテーション学部長。カマチグループ関東本部リハビリテーション統括本部長。

 

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