社会福祉法人風土記<3>広島新生学園 上 原爆体験がすべての始まり
2015年06月08日 福祉新聞編集部戦後70年の節目を迎えた今年は、人類史上初の原爆投下から70年、という記念すべき年でもある。社会福祉法人・児童養護施設「広島新生学園」は、一瞬にして広島市内を廃虚と化したその悲劇の日に生まれた、といっても過言ではない。
創立者、上栗頼登(1919~95年)の“原爆体験”がすべての始まりだ。
同志社大学社会事業学科で学んでいたが、1944年(昭和19年)9月に召集。当時の北満、愛知県・岡崎を経て45年8月はじめ、郷里の広島連隊に陸軍見習士官として配属された。召集以来一度も家族と会っていなかったため、「一晩でいいから帰省させて」と無理やり頼み込んで、広島市郊外の実家に戻ったのが1945年8月5日。そして翌朝、悲劇の瞬間をそこで迎えた。
郊外だったため原爆の難を逃れた上栗は、急ぎ連隊に戻ろうと広島市内へ向かった。途中、横川橋のたもとで赤ん坊の泣き声を聞いた。近づくと、すでに息絶えた母親の乳房にしゃぶりついて泣いている。周りの人に助けを求めたが、みんな自分のことで手いっぱい。自分の水筒の水を赤子の口に含ませて、その場を去るしかなかった。
この地獄絵図の中での慟哭の思い、慙愧の念が、その後の児童福祉活動のエネルギーの源になった、と後日語っている。
原爆によってほぼ全滅した自分の連隊で、戦友の亡骸を荼毘に付す日々が続いたが、8月15日の終戦後に除隊した上栗は、被爆孤児らの収容施設となっていた比治山小学校で手助けを始めた。田舎に備蓄していた軍の物資や食糧を集めて提供した。
さらに上栗の運命を変えたのは、終戦から2カ月たった10月22日。フィリピンなど南方の激戦地からの引揚船が宇品港など広島県の港に続々と入港し始めたのだ。
第一陣はフィリピン・ミンダナオ島からの引揚船。現地邦人は45年4月から米軍による攻撃を受けて山中に避難。そこでフィリピン民兵に襲われて、トカゲやヘビを食料にしながら命をつないだが、多くの餓死者が出た。引揚船に乗り込めても、故国の土を踏む前に船中で命を落とす者が相次いだ。両親を失って帰国船に乗った子どもも多くいた。
上陸してきた子どもたちを見て上栗はアッと驚いた、「誰も彼も顔に無数のしわが寄っていてまるで猿の顔にそっくりだ」と。栄養失調で衰弱し、さらに肺炎で息絶え絶えの子らだった。
当時、引き揚げ業務は復員省(後の厚生省引揚援護局)が当たっていた。だが、引き揚げ後の収容生活は管轄外。県も市も手が回らない。そこで「俺がやる」と上栗が動いた。軍除隊退職金2000円を注ぎ込み、宇品港の旧陸軍船舶輸送部隊の兵舎を借りて、個人経営の引揚孤児収容所を開設したのだ。「広島新生学園」の源流である。
こんな哀しいエピソードがある。衰弱した子どもたちは日赤病院で治療してくれたが、10~12月は毎月10人以上が死亡した。上栗は病院から遺体を引き取り収容所で火葬に付し、遺骨を寺で供養してもらい、骨つぼは自室に置いた。ある日、病院から引き取った遺体に帽子をかぶせ背中におぶって路面電車に乗った。隣席にいた中年女性が「帽子が顔にかぶさっていますよ」と直そうとした際、女性の手が顔に触れ、その冷たさに驚いた表情をした。上栗はすぐに電車を降りた…。
つらい日々はその後も続く。経営主体が戦災援護会や恩賜財団同胞援護会に替わり、施設場所も宇品から草津にあった旧軍人母子寮桜寮に移った。それと並行して1946年11月から引揚孤児に加えて戦災浮浪孤児の収容も始めたのだ。原爆孤児だけでなく空襲で親や家族を失くした少年少女が、広島県以外からどっと流入してきたのだ。
戦災孤児といえば、東京・上野や新橋を根城にした浮浪少年たちの姿が戦後風俗として記録されている。生きるため必死で、盗み、恐喝、闇商売を平気でやる暴力的な不良少年の一団も多かった。
広島でも事情は大同小異。せっかく保護、収容しても施設からの逃亡を繰り返す。しかも施設の備品の毛布を盗んでいく。売って食費の足しにするのだ。実は上栗は倉庫のカギは締めずにいた。「毛布を売ったら数日分の食費になる。その間にさらに悪事をしないうちに連れ戻そう」という心遣いからだった。
職員と共に上栗は逃亡孤児を探し歩いた。見つけて連れて帰っても警察には突き出さなかった。そうすればさらにワルになる、との考えからだ。
上栗が書き残した言葉に当時の心情がのぞく。
「愛至らざるも、我が許にて育てん。浮浪児なればこそ、近頃は少しずつお父様らしき感情の湧き始めしか我」
そんな上栗の情熱と使命感に共鳴した女性がいた。東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)で幼児教育を学び、戦後、三原の幼稚園教員となり、次々と保母が辞めていく桜寮に飛び込んで献身的な働きをしていた。1946年11月に上栗と結婚した和子夫人(1918~2005年)である。一時140人にまで膨れ上がった収容孤児から「おかあちゃん」として慕われ、95年に76歳で逝った上栗と二人三脚で児童福祉一筋の人生を歩み続けた。
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