社会福祉法人風土記<23>鳥取こども学園 下 高校全入運動を先駆け
2017年05月29日 福祉新聞編集部学園で生まれ育った藤野興一・常務理事兼学園長(75歳)は「私が中学3年生の時、学園に同学年は14人いたが、高校に進学できたのは私を含め3人だけだった。兄弟姉妹同然に育った仲間に申し訳ないという後ろめたい気持ちをずっと引きずっていた。1976年に職員となって学園に戻ったが、状況は変わっていなかった。高校への進学は中学3年生9人中2人。進学したいのにできない大きな理由は、両親がいる者、品行方正な者、などと児童相談所が厳しい制限を設けていたため」と言う。
1978(昭和53)年、18歳までの養護保障を掲げ、全国の児童養護施設に先駆けて「高校全入運動」を開始する。
■学園出身者が自殺
退所した子どもたちの支援も開始する。藤野学園長は「OBで自殺した子がいた。一人きりでギリギリのところで生きている子は、死んじゃおうかなと思ったときには誰ともしがらみのない分簡単に死を選んでしまうという事実に直面し、強い衝撃を受けた」と言う。
これを契機に1984(昭和59)年、自立援助ホーム「鳥取フレンド」、のちに「鳥取スマイル」も開設。さらに対象を広げて若者の社会的自立を目指した「地域若者サポートステーション」事業を鳥取市と米子市に展開。2008(平成20)年、鳥取県退所児童等アフターケア事業として市内に「ひだまり」を開設し、職業紹介・研修、就労支援や生活支援を実施。4年後、就労継続支援B型事業所「はまむら作業所」も開設する。
そして1987(昭和62)年、児童養護施設「足ながおじさんの会」基金を設立し、大学・専門学校への進学支援を始める。
支援の第1号は学園出身者だった。「当時は施設出身者が大学等へ進学することは珍しく、地元新聞などが熱心に取り上げてくれた。おかげで基金は集まった」と呼び掛け人の藤野学園長は語る。
基金の集め方は、進学希望者が出た時に入学金と学費をそのつど集めるといった方法だ。その後、県下の他施設出身者にも対象を拡大した。
■子どもらの生の声を
「全国養護施設高校生交流集会」にも学園は積極的に関わる。「施設生活の当事者である子どもたち同士で交流会をし、子どもたちの生の声を聞くことで私たちも自己変革していく道が開けるのではないか」と1988(昭和63)年、第1回を鳥取で開催。「単なるイベントではなく、児童養護施設全体のレベルアップを目指した運動でした」と藤野学園長は言う。
翌年、国連総会で「児童の権利に関する条約」が採択される。子どもの最善の利益のために行動することが求められ始めた時代の流れの中で生まれた交流集会だったが、11回目の開催をもって幕が引かれた。
現在、児童養護施設と保育所のほかに、1994(平成6)年に開設された情緒障害児短期治療施設(児童心理治療施設)(5ホームと通所部2ホーム)、「地域子育て支援センター」「児童家庭支援センター」「一時保護所」、乳児院「鳥取こども学園乳児部」(3ホーム)、診療所「こころの発達クリニック」、「鳥取養育研究所」、小学校の特別支援学級分教室、中学校の分校、里親支援施設「とっとり」を敷地内に併せ持つ。
国連の「児童の代替的養護に関する指針」(2009年、国連総会決議)は、大規模施設を廃止し、可能な限り家庭や少人数の家庭環境に近い「家庭的養育」を求めているが、藤野学園長は「現在、児童養護施設は虐待を受けた子や障害児が多く、保護者も虐待された経験や障害者が増えているので、子と親の双方を丁寧に支援していく必要がある。アメリカやイギリス、EU諸国などのように施設を廃止し里親への移行を進めるという方向ではなく、日本独特の措置制度の下で、小規模ケア・個別ケアの拡充を図りつつ、専門性を持つ児童養護施設と里親が連携していく日本独特の社会的養護(日本型社会的養護)を目指すべき」だと語る。
学園前を流れる天神川。昭和20年代ごろは殺風景な場所で、ここに学園の子どもたちと職員が桜の苗木を植えた。今では見事な桜並木となり、今春も道行く人たちを楽しませてくれた。
尾崎俶子理事長(76歳)は1世紀以上前にまかれた一粒の麦の命、法人の基本理念である「愛」がいつまでもともし続けられることを祈り、学園は次の100年に向かって歩を進めている。
肩書きは3月末現在。
【荻原芳明】