社会福祉法人風土記<22>佛子園 上 戦災孤児の行く末を思う
2017年03月27日 福祉新聞編集部石川県内の金沢市、白山市、小松市、能美市、輪島市、能登町の六カ所に主な拠点を置く社会福祉法人佛子園は、白山市北安田町にある行善寺の隣接地に法人本部とB’s(佛子園の略称)の各施設がある。
その起こりは、雄谷良成第3代理事長(56)の祖父で行善寺45世住職だった本英(1909〜86)が、生まれ故郷の能登地方から戦災孤児や居場所のなかった知的障害者を引き取ったことが始まりで、その人数は20人を超えた。戦後、戦災孤児は全国で沖縄を除いて2万8247人(1947年・厚生省調べ)に上った。石川県は幸い空襲は無かったが、第2次大戦の出征先で父親が戦死し保護者を失った孤児は県内で1550人(1948年・石川県調べ)を数えた。
本英の行動は自分自身の体験からきたものだった。一つは幼くして両親と死別し孤児になったこと。もう一つは大戦で戦死した父親たちが自分と同年輩であり、残された年端も行かない子どもたちの行く末を、どれほど心配して逝ったか、その気持ちを思う時、居ても立ってもいられない心境になった。同時に子どもを助けることは僧侶としての使命だと感じたからである。
そして、引き取ったこの子らがここを出たあと行き場はあるのか、その将来を考えた末、〝私(本英)が受け皿づくりをするしかない〟と、やむにやまれぬ気持ちから本格的な施設づくりを決断した。1960(昭和35)年、行善寺の所有する土地、建物を法人に寄付し社会福祉法人佛子園が誕生したのである。その本英のことで言えば、幼くして預けられた寺は、口能登の羽咋市の日蓮宗本山妙成寺であった。仏教史上から見ると、ここを拠点に日蓮宗は、日本海沿いの布教を進めたとされる名刹である。この寺周辺は、中世の土豪、近世では豪農として知られた雄谷一族との縁も深かったのである。
■寝食を共に
この法人誕生の翌年生まれの雄谷理事長は語った。「私は、寺で預かっていた子どもたちと高校に入るまで寝食を共にしていました。物心つく頃、いつもまわりにお兄ちゃん、お姉ちゃんがいて、私が近所で遊んでいていじめられたりすると、そのお兄ちゃんが相手のところに飛んで行くんです(笑)。子どもの私には障害があるとかないとか全く関係ないんです。それは振り返れば『佛子園』グループの理念、方針の〝ごちゃまぜ〟そのものでした」。
芥川賞作家の村上龍氏は「佛子園」への応援メッセージの中で〝ごちゃまぜ〟に触れて「似たような意でよく使われるのは『共生』だが、きまじめな印象になる。同じ街で障害者、高齢者、それに子どもたちが、共に接するのは、当然のことながら簡単ではなく、『きまじめ』ではなく、人間味あふれ、懐深いユーモアのようなものだと思う(略)」と述べていた。
ところで第2代理事長で父でもある雄谷助成会長(1939〜)は、行善寺から一時離れて早稲田大学に進み、のち会社勤務などを経て、40代の時に法人入りし、現在の法人の基盤づくりに尽力した。
■天然温泉施設も
法人本部のある行善寺を中心とした「佛子園」の福祉事業は、高齢者、障害者、児童への支援と、地域密着型のウェルネス(会員制・ジム)、クリニック、配食サービスと幅広い。そば処、天然温泉などの商業施設もある。
ここ行善寺近くに38年前に引っ越して来た片岸槙子さん(69)はにこやかに語った。
「子どもが保育園児の時、当時の助成園長はカリキュラムで縛らず、外で元気に遊べ主義でした(笑)。今もここにはその雰囲気がありますね。ジムで汗を流しそばを食べて、いろいろな人に出会って元気なんですよ」。
雄谷理事長は、金沢大学で障害者心理について学ぶが、しっくりこなかった。その時の心境から法人に入るまでを語ってもらった。
「小さい時から障害のある子と一緒に生活していたこと。父と母が365日24時間仕事をする姿を見ていたので、大学との落差を感じました。卒業後、特別支援学校の立ち上げ教員に。そこから青年海外協力隊員(JICA)としてドミニカ共和国に4年間。そこで〝人の幸せ、豊かさ〟とは何か考えさせられ学びました。帰国後、北国新聞社で6年間勤務し、地域づくり、生きがいづくりを目指す『佛子園』で福祉に取り組むことを決意しました」。
【高野 進】