社会福祉法人風土記<21>みねやま福祉会 下 引き継がれた“私たちの願い”

2017年0320 福祉新聞編集部
はごろも苑

平成の時代に入り、峰山町では老人ホーム建設の機運が高まり、町は「特別養護老人ホーム建設準備委員会」を立ち上げ検討を開始する。

 

白羽の矢が立ったのがみねやま福祉会で、1992(平成4)年に法人名称を「社会福祉法人峰山乳児院」から「社会福祉法人みねやま福祉会」に変更した。児童福祉分野の法人だったが、これまでの実績と町・地域への貢献が評価された。1994(平成6)年4月、特別養護老人ホーム「はごろも苑」「峰山町在宅介護支援センター」(施設長=櫛田匠・現理事長)を開設した。

 

建設資金は国、府、町からの補助金のほか、町民からの寄付を充て、寄付は「特別養護老人ホーム建設を支援する会(錦織米市会長=当時)」が先頭に立って町民、企業などに呼び掛けた。「支援する会」はホーム開設後、社会福祉法人みねやま福祉会後援会(嶋田信行会長)に発展し、今も物心両面で法人を支えている。

 

地域に開かれた施設、地域福祉・在宅福祉の拠点としての法人の次の一歩が始まる。

 

■出会いも酷似

 

1996(平成8)年には障害児通園施設「さつき園」を開設。創設者・櫛田一郎(1921~1974)の死後は妻・邦子(1927~1998)が乳児院長となり法人の実際を切り盛りし、理事長職は一郎の友人で町の開業医・新谷繁(1920~1996)らが法人を支えた。

 

2004(平成16)年に就任した櫛田匠・現理事長(1951~)と妻の恵里子・現乳児院長(1952~)との出会いも創設者夫婦に酷似している。

 

一郎が逝去した翌1975(昭和50)年、次男の匠さんは大学の夏休みを利用して帰省、高校時代の友人らと共に完成近い「ゆうかり乳児保育所」の建設手伝いをする。手伝いに来た中の一人が恵里子さんだった。

 

中学・高校と同学年、その頃から互いに魅かれていたこともあり、即、意気投合、翌年に結婚。匠さんは大学生で恵里子さんは小学校教諭、共にキリスト教徒、信仰も同じだった。1979(昭和54)年4月、二人は法人の職員となる。

 

櫛田匠・理事長と恵理子・乳児院長。 今も乳児院に掛かる旧法人名の看板の前で。

 

やがて地域からの要望とニーズに応えて事業は拡大していく。

 

「福祉サービスのない地域には必要とされるサービスを提供していく」という法人の基本姿勢と合致するもので事業拡大は必然でもあった。

 

現在、京丹後市と宮津市に、児童福祉事業として乳児院、児童養護施設(地域グループケア2カ所を含む)、保育所5カ所、障害福祉事業では通園施設や生活支援センターなど3カ所、高齢者福祉事業は総合老人福祉施設2カ所、グループホーム2カ所、小規模多機能型居宅介護施設3カ所を経営するに至り、すべての施設には創設者の理念「管理より生活」が貫かれている。

 

小規模多機能型居宅介護施設「さかいの家」の2階は児童養護施設の地域グループケア「さくらの家」になっている。現在それぞれの玄関は別々になっているが、近々これを一つにする計画であり、邦子・前乳児院長の夢「子どもたちと高齢者が一緒に過ごせる生活の場」が実現しようとしている。

 

国際貢献、特にアジアの福祉充実にも力を入れ、全国社会福祉協議会が実施している「アジア社会福祉従事者長期研修事業」にも協力。これまでにフィリピン、韓国など6カ国から8人の研修生を受け入れ、今年度もスリランカからの研修生が学んだ。

 

■4月に総合施設開設

 

現在、隣の宮津市に今春4月の開設を目指して特養、保育所、障害児施設、各種資格取得研修も行う実習センターなどを包含した総合施設「宮津福祉人材センター(仮称)」を建設中。「地域からの求めに応じるだけでなく、職員のスキルアップを目指し、意識の活性化を図るなど法人の強い期待・意志を込め新しい風を吹き込みたい」と櫛田匠理事長は言う。老朽化しつつある乳児院と幼児寮の移転も計画中だ。

 

「小規模多機能型は、赤字で難しいと言う方も多いが、工夫次第です。私はこれからの老人福祉の向かうところの一つと考えています」「障害関係では共生に向けて、社福では規制が多い農業なども視野に入れて、さらに研究と実践を続けたい」と夢は果てしない。 「だが、自分は父の目に適かなっているだろうか?」と日々自問していると言う。「これに一応の納得ができたら、あとはこれからの人達に託していきたい」と続けた。

 

【荻原芳明】