社会福祉法人風土記<20>弘善会 児童養護施設讃岐学園 中 増える戦災孤児ら、園舎新築

2017年0220 福祉新聞編集部
ララ物資に笑顔の園児たち(1947年9月)

児童福祉法は1948(昭和23)年、施行された。高松市の児童養護施設「讃岐学園」(定員79人)にも進駐軍の衛生思想などが流入する。食べ物はむろんのこと、消毒薬ひとつ満足に入手できなかったと『百年誌』(2003年)は嘆く。 それだけに、アメリカから寄せられる救援のララ物資を手にする園児たちの明るい笑顔は印象的だ。

 

しかし、戦災孤児ら受け入れは増えるばかり。社会福祉法人(弘善会)となった1952年には126人に。

 

翌年、5代目園長として苦しい台所を預かったのが故・阿部龍汪氏(香川県・実相寺住職、1925~2014年)。群馬県の真言宗派の寺に育ち、実相寺へ養子に入った。53年間、園長の職にあった(1995~2000年、法人理事長兼務)。

 

阿部龍汪・5代目園長

 

■地域へ開く

 

手狭になった園舎の拡張・鉄筋化や5月の「こどもの日」にあわせ県知事や市長、実業家らを迎えた「一日園長」行事、園の一角での養豚(園舎建築費の利子ねん出)、園後援会づくり…次々とコトを興していく。その最大事業は高松市前田西町への園舎新築・移転(1971年)だろう。

 

 

阿部園長らは香川銀行本店(高松市)を訪れ、用地探しの助力を依頼した。対応したのが上枝大輔さん(82)。丸亀支店時代、讃岐学園とは別法人だが、救護施設「萬象園」設立(丸亀市、1969年)の資金繰りを阿部園長が口添えして以来の縁だ。とはいえ学園の金庫はほぼ空っぽ。幸い篤志家が5000万円を無利子で用立ててくれた。二つの川の交わる中州に2万8000平方メートルの畑を見つけ、鉄筋コンクリート造り2棟の新園舎へ70年から徐々に移ったのである。

 

「発想豊かな、経営の才も備えた度胸のある人でした」。13年いた伊予銀行(本店・松山市)を辞め、園舎落成の71年に法人事務長として福祉の世界へ飛び込んだ福家信雄さん(81)は思い出す。阿部園長を戦後の〝中興の祖〟とすれば、この人は発展を支えた実務家といってよかろう。

 

軌道に乗った80年代、在籍児童数に減少が兆す(ピークは84年124人)。女性の社会進出を背景に法人は保育園を検討したが、既に近くにあり断念。まだ少なかった高齢者施設を模索した。「児童養護は専門でも介護までできまい」と県の横やりが入った。「大丈夫です」と阿部園長。1985年、福家さんを初代施設長に特別養護老人ホーム「弘恩苑」は船出した。園地の一部を地元の信金へグラウンドとして譲った資金を充てて。

 

■水害を乗り越えて

 

その2年後の87年10月16日夜。四国を襲った台風19号で川はあふれ、園の1階が水没した。当時、指導員は4人。「消防署員が警戒するよう知らせてくれたが、急に増水して。中高生の女子は幼児を2階へ、男子も布団などを運び上げた。いつもは問題児君や自己チュー君が懸命に頑張ってくれ、この子たちを一層好きになりました」と寮長の斎藤鈴代さん(53)。職員も命綱を体に巻いて事務棟へ行き、重要書類を2階へ移した。

 

災害後の展開もサプライズだ。「あんな危ない所に置いておけない」と県はポンプ場用地として園地を買い上げた。それを原資に1990(平成2)年、そう遠くない現在地へ移転した。

 

一方、弘恩苑に続き、「香色苑」(1999年)、「法寿苑」(2005年)と特養を立ち上げていく。法寿苑の初代苑長(2005~08年)に就いたのは福家さん同様、数字に強い上枝さんであった。むろん施設長研修を受けたあとに。

 

旧舎の園で寮母、弘恩苑では介護長を務めた保母の前田洋子さん(66)は「命令口調で接しないようにとよく注意しました。今はずっとよくなりましたね。子どももお年寄りもケアは〝利用者ファースト〟です」。

 

阿部氏は人も得ていたのであろう。

 

 

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