社会福祉法人風土記<16>大館感恩講 中 農地解放による危機脱し再出発

2016年1010 福祉新聞編集部
大館感恩講に勤務して40年。今は乳児保育園の園長も務める兜森和夫・法人理事兼事務局長

「大館感恩講は長い歴史の中で、幾度か存続の危機に見舞われました」
社会福祉法人大館感恩講の兜森和夫理事・事務局長(68)は「150年誌」(1990年発刊)の編集者の一人。苦境の足跡を詳しく知るだけに、感慨深げに歴史を語る。

 

その中でも最大の危急存亡の秋は、1945年の敗戦後、GHQが次々に打ち出す大改革、とくに「自作農特別措置法」、いわゆる農地解放によって広大な田畑をすべて手放さざるを得なかった時だ。辛うじて宅地のみが財産として残った。「もう社会的使命は終わったのではないか」という声も内部から漏れた。

 

戦後の民主主義社会への移行で、「民間の慈善事業から行政による福祉政策」へと流れが変わってきた。昭和20年代前半には生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法などが相次いで制定された。

 

この間、有力理事が次々と死亡・退任し事業は低迷、事実上の休業状態がしばらく続いた。

 

再生の時機は1965(昭和40)年にやってきた。それまでの財団法人「大館田郷感恩講」を解散して、新たに社会福祉法人「大館感恩講」に改組して再出発をめざし、翌年設立認可されたのだ。

 

「……戦後は当講の利用もほとんどなく、当講もまた、講の目的そのものは達せられたものとよろこんでおります。しかしながら、社会福祉事業の実施は当講の精神でもあり、また永遠の使命といたしておりますので、現代の事情に合うかたちでもって社会福祉事業を営み、市政に少しでも寄与したいと考えております」(法人設立の願い書)

 

大館市と協議した結果、市が経営していた公益質屋と母子寮を感恩講が引き継ぐことになった。

 

300万人を超える戦死者を出した大戦後、たくさんの戦争未亡人が子どもを抱えて生活に追われた。母子寮が全国に作られ、ピークの昭和30年代前半には621にも達した。秋田県でも18カ所に建てられ、大館市では1951(昭和26)年に市役所の近くの浄土宗の寺「一心院」境内の敷地に建てられた。

 

「人が困っていたら助ける。父はその気持ちだけだったでしょうね」
現在、社会福祉法人大館感恩講の理事長を務める宮原文彌・一心院住職(74)は振り返る。父で先代の宮原真誡住職は敷地を無償貸与しただけでなく、建設資金にと100万円を寄付、浄土宗の「共生」の教えを実践した。

 

ちなみに一心院には大河ドラマ「真田丸」の主人公、真田信繁(幸村)の墓があり、大阪夏の陣で戦死せずに、この地まで逃げ延びた、という伝説が残っている。

 

大館感恩講が市から経営を引き継いだ1966(昭和41)年、母子寮の建物は老朽化していた。自らも母子家庭に育ち、10年後、少年指導員として「白百合ホーム」(昭和43年に改称)で働き始めた兜森和夫・法人事務局長は「狭い、暗いバラックでした。でもお母さん方が元気で、大きな声で子供を叱っている姿がたくましく映りました」と当時を懐かしく思い出す。

 

その後、大館市泉町の現在地に移転改築され、定員20世帯が生活している。1998(平成10)年の児童福祉法改正で母子寮は「母子生活支援施設」と名称を変えた。

 

変わったのは名称だけではない。白百合ホーム施設長を長く務め、全国母子生活支援施設協議会会長・顧問も務めた兜森事務局長が説明する。

 

「時代とともに入所者が変わってきた。昭和30年代までは夫死亡の母子家庭が多かったが、高度成長が始まって好景気になってからは、離婚による入所が増えてきた。シングルマザーや、夫・父のDV(家庭内暴力)から逃れてくる母子も目立ってきています」

 

小林儀貴施設長(中央)ら母子生活支援施設「白百合ホーム」スタッフ

 

兜森からバトンを受け、31年間「白百合ホーム」で働く小林儀貴施設長(51)は「最近はうつ病やパニック症候群など精神的に不安を抱える母親も入所してくる。でも、母親から感謝の言葉をもらったり、一緒に遊ぶ子どもたちの笑顔を見たりすると、この仕事をやっていてよかったなと感じます。ここにいた子どもから退所後に結婚式の招待状が届くこともあります」とうれしそうに話す。

 

【網谷隆司郎】