社会福祉法人風土記<15>和進奉仕会 上 私財投じて 保育と青少年育成事業

2016年0912 福祉新聞編集部
吉田寛行・初代理事長(左)と吉田寛一郎・現理事長

名古屋市の東北部にあり自然環境に恵まれたベッドタウンでもある守山区と、同市の北西部に位置する西区で、保育園2カ所と児童養護施設、それに特別養護老人ホームなど介護施設2カ所、デイサービスと居宅介護支援事業、給食サービス事業を運営しているのが社会福祉法人「和進奉仕会」(法人本部=西区平出町)。

 

法人の礎となった保育所「和進園」と青少年育成の修養道場「和進館」は設立されてから今年で84年になる。

 

4代目となる吉田寛一郎理事長(77)は法人の長い歴史を振り返りながら、創立者で祖父でもある吉田寛行(1880〜1958)に思いを馳せた。

 

和進奉仕会は1932(昭和7)年に寛行が、現在の和進ふれあいセンターがある守山区廿軒家に保育所「和進園」を開設したのが始まりだ。

 

寛行は毛織物の羅紗の輸入販売を営み、財を築いたが、病弱だったことから46歳の時に実業界から身を引き、社会福祉事業に専念するようになった。地域からの要望で、現在の和進ふれあいセンターがある場所に保育所を開設したのは52歳の時だった。同じ年に青少年の修養道場を標榜した「和進館」も守山区長栄に開設、これも法人の基になっていく。

 

この間の事情は法人の歴史には記されていないが、寛行は、結核による療養生活を経験したためか、「死んでも命のあるように」「この世に残すことはないか」と口癖のように家族に言っていたと伝わっており、孫の寛一郎理事長は「予後の人生を暗中模索するなかで地域の要望が強かった保育や若者の修養の場をつくったようだ」と語る。

 

その源流は寛行の父、孟辰にさかのぼることができる。孟辰は江戸時代に街道の防衛に当たる「百人組同心」として尾張藩に仕えた初代久右ヱ門の10代目。明治維新以降に実業界に進出した。大正時代には自らの土地を公道として寄付し、公民館とも言える「和孟会館」を設立するなど、社会福祉事業に取り組んでいる。組屋敷に面した道は「吉田小路」として、いまもその名をとどめている。

 

寛行が私財を投じて創立した保育所「和進園」は農繁期の託児所事業のほか、乳幼児の健康相談事業にも取り組んだ。一方、「和進館」は本館2棟、別館3棟の建物で、青少年の修養のための道場として利用されたほか、会議室、大小の集会室、娯楽室や図書室があり、講演会や映画会、婦人会の集会などとして地域に開放された。

 

和進館には眼科診療所も開設された。当時の名古屋帝大の眼科専門医と看護師により、地元の小学生など伝染性の慢性結膜炎、トラホーム(別名トラコーマ)の診療が行われ、乳幼児のみならず、地域住民の診療にも当たった。

 

和進園と和進館が設立された年は、青年将校によって、犬養毅首相が殺害されるという「五・一五事件」が起きた政情不安の時代だったことは特筆すべきだろう。

 

法人の名称「和進奉仕会」は寛行の座右の銘でもある「和進奉仕豊生」にちなんだものだ。聖徳太子が制定した「十七条憲法」で掲げた「和を以て貴しとなす」がその基になっており、その教えは、いまも法人の理念である「和進」「奉仕」「豊生」として生かされている。

 

夢殿を模した八角堂

 

和進館には1939(昭和14)年に聖徳太子の夢殿を模した「八角堂」も建立された。実は六角堂なのだが、「ホールがあり、ステージがあり、公民館のようだった」と、在りし日の姿を懐かしがる人も多かったという。

 

戦災にも遭わなかった八角堂は平成元(1989)年に耐震性の問題で取り壊された。移転・復元の声も多かったようだが、実現は難しかった。跡地は和進館保育園の一部として生まれ変わり、その園内には聖徳太子の「孝養像」が寛行の胸像と共に建立されている。姿を消した八角堂の往時の姿は本部がある「和進館ふれあいセンター」の玄関ホールに壁画として残されている。

 

戦時中の和進館には戦争の長期化で困窮する軍人遺族や出征家庭のための職業補導所が開設され、生活の支援を行った。だが、第2次世界大戦末期になると、米軍機による空襲が激しくなり、守山区廿軒家の保育所「和進園」は全壊。戦災で法人のすべての事業は中断を余儀なくされることになる。

 

 

【澤 晴夫】