社会福祉法人風土記<12>弘前愛成園 中 孤児のリーダーが後継者に

2016年0613 福祉新聞編集部
開館1周年記念興業の慈善館(大正4年)

「♪空にさえずる鳥の声~ジンタッタジンタッタ…」

 

弘前市の繁華街に楽器演奏で「美しき天然」の音楽が流れる。活動写真館(映画館)「慈善館」前で、ラッパと太鼓による4人の楽隊が客寄せに大きな音を響かせると、街行く人たちがわっと集まる。

 

1914(大正3)年に津軽地方で初、青森県下では2番目に開館した常設映画館は、孤児救護施設「東北育児院」が経営する娯楽の殿堂だった。なぜ、福祉施設が映画館を?

 

弘前市内で小さな薬屋を営む佐々木五三郎(1868~1945年)が、冷害・凶作による飢餓で困窮していた孤児を引き取り、1902(明治35)年に創設した「東北育児院」(現在の弘前愛成園)。当初から運営資金が不足していた。

 

「創立以来、主として自働自営をもって経営してきた」と自負する五三郎は、資金稼ぎとしてさまざまなことを試みてきた。

 

孤児たちと一緒に町に行商に出て、石けん、ろうそくを売って歩いた。

 

ウサギを数百羽も飼い、養豚、養蚕までやった。

 

商店名を記した帆を張った船を引いて市内を練り歩く広告事業もやった。

 

涙ぐましい資金集めのリーダーが施設の孤児、太田寅次郎だった。開設直後8歳で入所した寅次郎は、営業活動にまい進して五三郎の右腕となった。やがて五三郎の養子となり長女と結婚。後継者となった佐々木寅次郎(1894~1979年)は一生を弘前愛成園にささげた。

 

佐々木寅次郎

 

いい金儲けの口は偶然やってきた。1908(明治41)年、全国を巡回していた活動写真班の会社が、弘前市で突然解散、映写機と楽器一式が売りに出された。「自働自営」精神がここで発揮された。当時各地で人気を博していたのに目を付けた五三郎は、300円で一式を購入、営利事業を始めた。その中心が地元の中学(東奥義塾)に通っていた寅次郎だった。

 

映写機の動かし方を中学の理科の先生に教わりながら映写技師の資格を取った。上映の際に付き物だったラッパや太鼓の楽隊編成も、元近衛兵から楽器の特訓を受け、それを施設の孤児たちに教えて楽隊編成にこぎつけた。

 

こうして活動写真巡業が始まり、6人編成の巡業隊は青森県のみならず、岩手、秋田、山形県まで足を延ばして、1日あたり2~3円の純利益を上げた。1909(明治42)年1~3月の決算書によると、育児院の総収入774円の52%を巡回事業が稼ぎだしている。

 

■映写機積んだ馬車焼く

 

ところが好事魔多し。1913(大正2)年、山形県巡業中に映写機など一式を積んでいた馬車がたばこの火の不始末で燃えてしまい、嗚呼一巻の終わり。

 

だが、寅次郎はショックにもめげず、冒頭の「慈善館」開設を実現させた。

 

戦後に寅次郎から施設経営全般をバトンタッチした三浦昌武(1912~98年)は「1966(昭和41)年に閉館するまで半世紀にわたって、慈善館が弘前愛成園を財政的に支えてくれた」と認めている。

 

当初の東北育児院に加えて、弘前幼稚保善園(1921年)、弘前養老救護院(1932年)など開設。戦後は個人経営から財団法人へ、さらに社会福祉法人へと経営形態を変えた。今や児童養護施設「弘前愛成園」をはじめ、養護老人ホーム「弘前温淸園」、特別養護老人ホーム「静光園」、幼保連携型認定こども園「花園保育園」など幅広くきめ細かい総合福祉施設を運営している。

 

「自働自営」のDNAは五三郎の娘婿(四女と結婚)である三浦昌武にも受け継がれた。戦後の混乱期に塩の販売、りんごの東京直売など知恵を絞った。1953(昭和28)年には精神病院を開院して(現在は一般財団法人弘前愛生会「弘前愛成会病院」)、経営母体を安定させた。

 

■賀川豊彦との武勇伝

 

三浦にはこんなエピソードがある。1948(昭和23)年、社会事業家として高名な賀川豊彦が弘前に講演に来た折、三浦が面会して弘前愛成園の総合計画を説明した。それを聞いた賀川が「三浦君、君は金の力で社会事業ができると思っているのかね」と叱責した。

 

1円でも多くの収入を、と日夜汗まみれになっていた当時の三浦はカッとして「賀川先生は霞を食って生きていけるというのですか」と食って掛かった、という“武勇伝”を書き残している。五三郎以来の自働自営精神、青森のじょっぱり魂が息づき、津軽の風土を脈々と感じさせる。

 

【網谷隆司郎】