社会福祉法人風土記<10>阿部睦会 下 職員研修などで先駆的対応

2016年0321 福祉新聞編集部
現在の共楽荘正面

1949(昭和24)年に開設された共楽荘(神奈川県横須賀市衣笠栄町)の67年にわたる歴史は、日本の老人福祉政策の足跡を浮き彫りにしている。

 

戦後の混乱期に設立されたときは、生活保護法による困窮病弱の気の毒な老人を収容する「養老院」という性格の施設からスタートした。日本経済の奇跡の高度成長が始まる昭和30年代(1955~1964年)には、貧窮から救うという発想を脱却して、社会全体で老人の自立生活を支援するという政策に変わっていった。

 

1963年に世界初の単独立法ともいわれた老人福祉法が制定されたのを受け、共楽荘も「養老施設」から「養護老人ホーム」と名称を変えた。

 

戦後一貫して平均寿命が伸び、世界一のスピードで超高齢社会を迎えた。それは質の変化、つまりさまざまなタイプの老人の出現と、受け皿となる施設側にも新たな対応が迫られることを意味する。共楽荘は全国的にも先進的な対応をとり続けてきた。

 

病弱・虚弱老人の増加に対応して、1964(昭和39)年に神奈川県下第1号の特別養護老人ホーム(50人)を開設。同年ケア老人の増加に対応して三浦市に共楽荘の分園を作り、翌年には富士山と相模湾を見渡せる高台にエメラルドグリーンの屋根と白い壁が美しい養護老人ホーム「美山ホーム」を開園した。全国的にも早い時期に個室設計としたほか、特養ホームも86年に併設するなど質量ともに充実させた。また、地元高校生による3泊4日の福祉体験学習は、福祉教育の先進的取り組みとして全国に広まった。

 

1970年代から「施設内のケアだけでいいのか」という福祉概念の拡張に伴い、在宅者を包み込んだ地域全体に広がる福祉も共楽荘で積極的に取り組んできた。78年の在宅入浴サービスから始まって、給食サービス、ショートステイ、相談事業、デイケアサービス、ホームヘルパー派遣、施設内に喫茶コーナー設置などなど。

 

共楽荘は一施設として地元町内会に加入。入居者たちが盆踊りや餅つき大会に参加したり、祭りの神輿が施設にやってきたり、防災協定を結ぶなど、さまざまな交流を通じて地域社会に溶け込んでいる。

 

阿部絢子会長(94)の弟で共楽荘の阿部輝雄施設長(84)は「うちでは会長の意向もあって、特に食事には力を入れており、皆さんに好評です」と言う。自前直営の厨房で冷凍食品は使わずに手作りで、管理栄養士の下、旬のものを中心にした地元食材を使った創意工夫の献立を毎日提供している。

 

阿部輝雄共楽荘施設長

 

福祉施設の職員確保と実務研修は現在、どこも最大の悩みだが、共楽荘の阿部施設長は「うちでは新人研修の後、現場での実務では指導者を決めて教えます。3カ月たったら施設内研修で主任が個別ケアをして、虐待の防止、理念の再確認をしながら、職員一人ひとりの専門性を高めながらレベルアップを図っています」と説明する。

 

何のためにここで働くのか。職員が携帯する名刺サイズの紙片には「虹の約束~共楽荘職員の行動指針」が記されている。60年以上にわたり慈母のように阿部睦会を率いてきた絢子会長の思いが凝縮されている。一部を紹介する。

 

★自分の親を入居させたいと思う施設ケアをつくろう
★人権とプライバシーを守るためのケアを徹底させよう
★認知症ケアを克服し身体拘束ゼロを目指そう

 

共楽荘から始まった阿部睦会の老人養護施設は現在、横須賀市の共楽荘(養護・特養)、三浦市の美山ホーム(養護・特養)、横浜市の横浜能見台ホーム(特養)へと拡充、総計約400人の入所者の援助を軸に、在宅者への各種サービスを地域全体へと広げてきた。

 

ますます増える高齢者人口、高まる施設需要、多様化するサービスの質。終戦直後の困窮老人保護から始まり、67年間の戦後社会の荒波とともに変化・進化してきた阿部睦会。21世紀、人類史初の超高齢社会のトップランナーとなった日本で、時代と地域の求めにどう対応していくのか。日本の近代化の扉を開いた横須賀から、老人福祉の未来の扉が開かれるか。“老舗”の真価が問われると同時に、期待も大きく膨れる。

 

【網谷隆司郎】