社会福祉法人風土記<10>阿部睦会 中 バラックながら120人が生活

2016年0314 福祉新聞編集部
共楽荘創設当時の食事風景

戦後の混乱期、着のみ着のまま、栄養失調、病弱の老人たちに、まず住める家をと1949(昭和24)年9月に生活保護法に基づく養老施設として始まった「共楽荘」。

 

創設者の阿部倉吉(1898~1953年)が、横須賀市衣笠栄町にあった旧海軍工廠工員宿舎を関東財務局から借りて、まず「家」の確保はできた。

 

しかし、500坪を超える木造2階建て宿舎は、終戦前に建てられたバラック。戦後は放置されたままで畳や建具は持ち去られ、室内は夏草ぼうぼう状態。「日本一の養老施設を造る」との理想に燃えた阿部が「ここを人間の住めるところにしよう」と私財を投じて、30畳一部屋の大部屋に15人が暮らす総勢120人の生活が始まった。

 

食糧、衣類、医薬品だけでなく日本国中すべての物資が不足していた時代。職員や入居者たちの証言、記録から当時の共楽荘の様子を点描すると—。

 

◆三方が小高い山に囲まれた敷地に野菜を植え、豚、ヤギ、ニワトリを飼って食料にして、なるべく自給自足に努めた。栄養になるからとヤギの乳を飲んだ。

 

◆横須賀港に進駐したアメリカ海軍基地から余った食料をもらった。毎晩ドラム缶に積んでリヤカーで共楽荘に運び込み、翌朝温かくして入居者に出すと喜ばれた。ニワトリを何百羽ももらった時はうれしかった。

 

◆それでも衰弱して亡くなる老人が出ると、木のミカン箱で棺を作り、リヤカーに積んで焼き場まで運んだ。

 

◆大部屋の雑居暮らしでは酒に酔ってけんかをする者もいて、夫婦者は男女別々に暮らすなど不都合なところが目立った—。

 

こうした日々が過ぎ、食糧事情は年々改善していったが、肝心の住環境に限界がきた。ある日、外から診療に来た医者が気付いた。「この建物は風で揺れている。隙間風が入って風邪をひく者が増える」

 

1952(昭和27)年に財団法人から社会福祉法人阿部睦会に組織変更して、阿部は「日本一の老人ホームを造る」という理想実現に向けて、まず、宿舎を建て替える、老人の健康を守るために診療所を作る、夫婦寮を新築する、の3方針を急務とした。

 

ところが、その阿部本人が1953(昭和28)年2月、脳溢血で急逝した。社会福祉事業に身を捧げた54年の生涯の突然の終焉だった。

 

道半ばでの悲報。当時の社会福祉事業は経営者の“家業”という色彩が濃く、創業者本人がいなくなって果たして共楽荘は存続できるのか、という不安が広がった。阿部睦会理事会は当時、乳幼児の救済活動に尽力していた女性社会事業家、黒川フジを理事長に決めた。

 

だが、その1週間後、理事全員立ち会いの下で阿部の金庫を開けると、「自分が万が一の時は絢子を会長にして事業を継続してほしい」という阿部自身の遺書の下書きが出てきた。

 

阿部絢子会長

 

「絢子」とは阿部の妻で現在の阿部絢子会長(94)のこと。結局、理事会は阿部会長の後継として絢子会長を承認、再出発を図った。今日まで60年以上阿部睦会の代表を務めてきた絢子会長が当時を振り返る。

 

「当時の私は二男一女の子育て一本の専業主婦でしたから、主人の仕事を受け継ぐのは迷いました。何をやったらいいか全くわかりませんでした。黒川さんから厳しい指導を受けながら社会福祉の基礎を教わりました」

 

逡巡している暇はなかった。1954(昭和29)年からの共楽荘改築3カ年計画は待ったなし。だが、ここにもう一つの難題があった。建築資金の不足に加え、金庫の中から850万円もの借金の証書が出てきたのだ。阿部個人がホーム運営、法人設立のため何人かから借りていたものだ。

 

絢子会長は家屋敷、山林などの資産を処分して返済。それでも足りない建設資金を捻出するため、寄付興業、今でいうチャリティーショーを毎年開いた。当時人気の美空ひばり、岡晴夫、三橋美智也らが横須賀市民会館で歌謡ショーを開くと800人の市民が行列を作った。「私も含め職員みんなで切符を売りに回りました。美空ひばりの時が一番売上金が多くて大変うれしかったのを今でも覚えています」と昨日のことのように喜ぶ。

 

いち早く医療と福祉との連携を図り効果を上げた付属診療所(19床)の開設、夫婦寮の新設、共楽荘(定員188人)新築完成。1956(昭和31)年までに夫の残した事業をやり遂げた。時あたかも、「もはや戦後ではない」と政府が、復興時代から成長時代への転換を宣言した年。共楽荘も創生期から成長期へと向かう節目を迎えていた。

 

 

【網谷隆司郎】