社会福祉法人風土記<10>阿部睦会 上 旧海軍施設に孤児ら収容

2016年0307 福祉新聞編集部
旧海軍工廠工員宿舎を借り受けてスタートした共楽荘

徳川幕府250年余の太平の眠りを覚ました「黒船来航」。ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が1853年、神奈川県横須賀・浦賀沖にやって来て、日本近代史の扉が開かれた。明治維新以降、大日本帝国海軍の「軍港都市」として発展してきた横須賀市。

 

社会福祉法人阿部睦会「共楽荘」(横須賀市衣笠栄町)は、海軍、アメリカ、戦争が色濃く染みた歴史風土から産声を上げた。

 

創設者の阿部倉吉(1898~1953年)は、戦中戦後の苦難の濁流から福祉の道を自ら切り開いた。

 

新潟県出身の阿部は19歳の時、海軍に志願。10年間の水兵生活の後、除隊して1927(昭和2)年、横須賀市にある財団法人横須賀隣人会の書記に就職した。

 

隣人会とは、「海軍さんの町」横須賀市に多くいた戦死した兵士、傷病兵士の妻子のための生活援助組織。女性たちに仕事を与える場として被服工場を運営していた。いわゆる授産施設である。約50人の女性がミシン作業で軍服などを縫い上げる間、幼児・学童らの世話をする託児所も設けていた。

 

女性や子どもたちを支援する現場で働いた阿部は、生来の勤勉さを発揮して、やがて横須賀隣人会の事務長、理事、1945(昭和20)年2月には会長に就任した。そして半年後に終戦の日を迎えた。

 

空襲によって焦土となった祖国には戦争犠牲者があふれていた。B29爆撃機などアメリカ軍機による空襲は海軍施設の集積する横須賀がターゲットになった。横浜、川崎は市街地の無差別爆撃に遭い、さらに大規模な犠牲者・被害者を出していた。

 

特に家や親を失った子どもたちは食べ物もなく栄養失調で街頭でふらふらしていた。全国有数の引揚港だった浦賀港には南洋諸島などアジア各地からやせ細った姿で上陸する子どもたちであふれていた。

 

創設者の阿部倉吉(右)

 

終戦後、阿部はすぐに動いた。横須賀市小矢部にあった旧海軍高等官寄宿舎を関東財務局から借り受け、身寄りのない子どもたちを収容し、45年12月には児童養護施設「春光園」を開設した。

 

「敗戦の混乱から振り返るものもなくて、捨てられた犬の子、猫の子のように、痩せ衰えた骨と皮ばかりの孤児が30人あまり、当てもない引き取り人を待っていた」

 

阿部と共に開設に尽力した横須賀隣人会の同僚で新聞記者だった樋口宅三郎が後年、当時の様子をこう描写している(春光学園70年史から)。

 

町中をさ迷っていたのは子どもだけではなかった。家屋や家族を失った老人たちも疲弊していた。横須賀市に進駐したアメリカ海軍は、子どもたちへのサポートには賛成だったが、「老人たちは日本軍に協力したから」と老人保護には冷たかった。また、「阿部は日本海軍の協力者だったから法人の代表者には適さない」と米軍に密告する者もいた。

 

だが、防空壕や地下道の中に住み着く老人たちが栄養失調のまま困窮生活を続けている悲惨な現実を前に、阿部は待てなかった。横須賀隣人会を勇退して、1948(昭和23)年10月、財団法人阿部睦会を設立。自らが経営者となって、まず旧法人から授産施設と保育施設を継承し、新たに日の出授産所、日の出保育園を開設した。

 

次いで念願だった老人収容施設開設へ乗り出し、「日本一の養老院を作ろう」との覚悟を固め、旧海軍工廠工員宿舎の借り受けに成功し、1949(昭和24)年9月、養老保護施設「共楽荘」開園にこぎつけた。

 

命名の由来は「厳しい生活条件の中でも将来に向けて少しでも共に明るく楽しく生活ができるように」との願いを込めて。また、阿部自身のモットーだった「和と親睦」を阿部睦会という名に込めた。

 

横須賀だけでなく横浜や川崎からやって来た生活困窮者120人とともに、共楽荘は曲がりなりにも船出した。だが、それは“おんぼろ船”だった。

 

【網谷隆司郎】