社会福祉法人風土記<9>芙蓉会 下 養豚と土地が事業拡大の原資
2016年02月24日 福祉新聞編集部1931(昭和6)年に「富士育児養老院」の第3代院長に就任した戸巻俊一は、世界恐慌と軍国主義の台頭でままならなくなった募金の代わりに、育児院の運営資金確保に養豚事業を選んだ。
自らリヤカーをひいて、厨芥を集めて養豚の飼料にした。時代が進むにつれ、住宅地での養豚が難しくなっていくと、郊外へと移転させながら養豚業は続けられ、育児院と、その後の芙蓉会運営に多大な財政的寄与をすることになる。
養豚事業のため移転した富士市石坂の土地は東名高速道路に、さらに同市大淵の土地は、県道の用地として買い上げられた。養豚廃棄物処理のための農地として購入した同市狐穴の土地も、宅地造成して売却する。みどり園の内藤順敬園長(84)は「まるで土地成金のようでした。園舎を建てる元手になったり、いまある芙蓉会は養豚と土地のおかげ」と述懐する。
話が前後するが、昭和の初めに育児院を継承、苦難の戦中、戦後時代を切り抜けた戸巻は、着々と事業を拡大していく。特に、1956(昭和31)年からの数年間は、戸巻にとって、慌ただしい日々だった。
その始まりは、育児院からの出火だった。映画フィルムの自然発火で、本館が全焼する。当時の吉原市(現富士市)の金子彦太郎市長の計らいで、使わなくなった学校の校舎の部材を無償提供され、早期の復旧ができた。その翌年に天皇、皇后両陛下が国民体育大会開催に合わせて、育児院を訪れた。社会福祉法人「芙蓉会」の設立認可を受けて4カ月後のことだった。
さらに両陛下の訪問が、芙蓉会にとって、思わぬ幸運となる。院内に展示してあった将来の不燃化構想を夢見た設計図に「これは何ですか」との質問があった。戸巻理事長が「火事で子どもたちに苦労をかけたので、次に建設する時は不燃化の建物をという夢の図です」と答えたところ、「これが実現したら子どもたちはより幸せになるでしょう」との言葉が返ってきた。
これを聞いた当時の金子市長が「それは約束したことと同じだ」ということで、市が不燃化に積極的に動いてくれ、用地買収、工事着工とトントン拍子に進み、現在地に園舎建設ができたというのだ。出火から法人設立、天皇、皇后両陛下の視察に、園舎の新築移転と、戸巻理事長にとっては夢のような数年だった。
さて、芙蓉会の「地域交流」の一つに、ボーイスカウトの結成がある。1950(昭和25)年の夏、山中湖(山梨県)でキャンプをしていた時、ボーイスカウトの活動を目の当たりにした入所児たちからの「ボーイスカウトに入りたい」との希望を叶えたものだった。
戸巻理事長は入所児だけでなく、「地域の児童も含めた教育活動でなければ意味がない」として地域児童も含めた「吉原第一隊」(現富士1団)を設立する。入所児たちが「育児院」と呼ばれ、卑屈になることを防ぐ意味もあったのだという。
みどり園の内藤園長は「戸巻理事長は亡くなるまで、ボーイスカウトのユニフォームを着ていた」と振り返る。
1967(昭和42)年には入所児の生活にサッカーを取り入れ、運動場でサッカーの基本を教えた。「FFC(芙蓉会フットボールクラブ)」を結成し、スポーツ少年団として登録。いまも地域のサッカー少年団のけん引役を担っている。
さらに芙蓉会はユニークな「地域貢献」にも乗り出している。1983(昭和58)年に2代目の理事長に就任した長男の戸巻芙美夫が1987(昭和62)年と、2010(平成22)年に2基の井戸を施設内で掘削したことだった。
「長期的な経費削減」のための自家水源確保だった。みどり園の内藤園長は「2代目理事長としての初仕事になった」と話す。「富士市は水源の多くを富士山の雪解け水などの地下水でまかなっている。ポンプアップしているので、災害などで停電すると断水してしまう。施設には自家発電があるので自家用の井戸は絶対に断水がない。災害時には、地域に水を分けることができる」(内藤園長)と言うのだ。
今年で芙蓉会の前身、富士育児院が創立されて113年になる。その歴史の中から、地域とともに歩んできた姿をうかがい知ることができる。
(澤 晴夫)
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