社会福祉法人風土記<9>芙蓉会 上 修行僧から改宗した創設者
2016年02月03日 福祉新聞編集部「製紙の街」として栄えた静岡県富士市に社会福祉法人「芙蓉会」が誕生したのは1957(昭和32)年。そのルーツは1903(明治36)年に創立された「富士育児院」までさかのぼる。明治から平成と、110年以上にわたり、それぞれの時代に援助を必要とした子どもやお年寄りに寄り添った事業が進められてきた。
芙蓉会の設立理念はキリスト教の「隣人愛」に基づく博愛の精神と利用者至上主義だ。2005年に制定されたロゴマークにはラテン語で『労するは祈りなり』と記されている。「芙蓉会の場で真摯に働くことは祈りに通じる」という意味で、芙蓉会創立の共通理解のためのシンボルだ。
現在の芙蓉会は「児童福祉」と「高齢者福祉」の2部門に大別される。児童福祉は法人設立とともに、1957年に富士育児院から改称した乳児院「恩賜記念みどり園」と児童養護施設「ひまわり園」のほかに、地域小規模児童養護施設「ひろみ」(2001年事業開始)がある。
高齢者福祉は2003年に事業を開始した特別養護老人ホーム「みぎわ園」を基軸に、ショートステイ、通所介護デイサービスセンター、居宅介護支援事業所、吉原西部地域包括支援センター、在宅介護支援センター、地域密着型小規模複合サービス「みぎわの里」の七つの事業を展開。「みぎわの里」は2015年2月に事業を開始したばかりだ。
「芙蓉会は地域のお世話になって、ここまで大きくなった」と話す2代目の戸巻芙美夫理事長(81)と、内藤順敬みどり園園長(84)の2人は、内藤園長が編集した「芙蓉会通史」や、社会福祉の先覚者シリーズ「跡導(みちしるべ)静岡の福祉を創った人々」をひもときながら、「富士育児院」から「芙蓉会」につながる歴史を振り返った。
富士育児院の創立者、渡辺代吉は1870(明治3)年に富士市で生まれた。子どもの頃から病弱で、13歳で出家、仏門に入った。寒中に滝に打たれ、長期の断食のほか、手のひらに油を注ぎ、腕に百目ロウソクを立てて、火の消えるまで耐えるなど、自らの肉体を難行苦行にさらした。身体至るところ、やけどだらけになり、両手の指は動かず、両ひじも曲がらない、障害の身になった。それにもめげず祈禱師として全国を行脚して修行を続けたという。
そんな渡辺が「仏教をもってキリスト教と討論する」と宣言して、1896(明治29)年に横浜に向かった。当時高名だった米国人の宣教師、ジェイムス・バラ博士に宗教論争を挑むつもりで、自宅を訪ねたのだった。バラ博士は、苦行を重ね障害を持つ身になった渡辺の姿に同情。涙ながらに祈っては説き、祈っては説き、懇々と諭した。バラ博士の熱血あふれる説法に、渡辺は感動、「翻然キリストを求める」(創立経過などを記した富士育児院小観)と、ついには改宗したという。バラ博士の勧めに従い、横浜にあったキリスト教伝道学校に入学。伝道布教に従事することになった。
伝道学校の教授で、シカゴ大学のトーレイ博士は、渡辺の真剣な求道の姿に感じ入り、シカゴ大学に渡辺のことを紹介したところ、たちまち2000ドル(現在の貨幣価値で約8000万円)の支援金が集まった。故郷の吉原(現富士市)に帰り、養生するよう勧められ、渡辺はその言葉に従った。
しかし、渡辺は自分1人だけが徒食するには忍びないとして、米国からの援助金と親戚からの資金を基に空き家を利用し1901(明治34)年、富士市吉原に「子守学校」を開設した。貧困家庭の子女を集め、造花の内職をする授産事業だったが、不良品が出たため、1年余りで失敗に終わってしまう。作業に従事した子女は次々に去っていったが、身体に障害を持つ2人の孤児が行く当てもなく、残ってしまう。
渡辺は自らも障害を持つ身であったため、孤児らを手放すに忍びず、この孤児たちと生活することを考えた。1903年に別の空き家を借り、障害児2人と孤児5人との生活が始まった。これが富士育児院創立のきっかけになる。
創立は日露戦争開戦の前年に当たる。みどり園の内藤園長によると「日本もかなり大変な時代で、貧しい人がたくさんいた。障害を持った子どもは『家の恥』だと言って、家には置かなかったんでしょうね」。そんな時代に富士育児院が創立されたことになる。
(澤 晴夫)
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