福島の福祉法人が能登の被災地支援 東日本大震災の経験生かす

2024年0327 福祉新聞編集部
避難所で高齢者に寄り添う小池さん=太田福祉記念会提供

2011年3月11日の東日本大震災。原発事故で避難指示が出された福島県富岡町の特別養護老人ホームから着の身着のままの利用者、職員100余人が約90キロ離れた郡山市熱海町の体育館にたどり着いた。ここから近くにあった社会福祉法人太田福祉記念会の支援活動が始まり、その経験が元日に発生した能登半島地震被災地への支援へとつながっていった。

 

今年1月下旬、同法人特別養護老人ホーム「あたみホーム」の佐藤慎吾グループリーダー(38)が被災地支援で金沢市の特養に派遣された。「大変な時こそ、互いを思う気持ちを学んだ」と振り返った。同様に熊本地震(16年4月)での支援経験がある「玉川ホーム」の小池靖介護員(48)は「東日本大震災の時は無我夢中だったが、能登では被災した利用者、職員が明るく、優しく派遣者に接してくれただけに、人員不足による職員の負担が心配だった」と派遣報告をしている。

 

佐々木俊仁常務理事(75)は「13年前の震災時の受け入れ、熊本地震やコロナ禍で人員不足になった施設への職員派遣などの経験の上に、今回も職員が手を挙げてくれたことに感謝」と派遣報告に記している。

 

 

東日本大震災当時、受け入れ先になったあたみホームで介護長をしていた菅野多美子・ケアハウスグリーンライフ小磯(同市湖南町)所長(61)は生々しく語った。

 

「当時の太田宏・3代理事長から『富岡町の人たちが、近くの郡山ユラックス熱海(体育館)に着いたと聞いた。すぐに見に行くように』との指示。山﨑雅人・あたみホーム園長(当時)と一緒に体育館に向かい、その光景に驚いた。100人余りの人たちが疲れ切って雑魚寝状態。何も持たず13時間以上もバスで、途中いくつかの施設で断られながら、やっとここまでたどり着いたという話だった」。医師で太田綜合病院附属太田熱海病院長でもあった太田理事長から「このままでは命にかかわる。すぐに重症者は病院に運び、多くの利用者、職員はあたみホームに入所してもらうように」と指示されたという。

 

猪腰久子・玉川ホーム園長(66)は「午前中の理事会で園長に就任し、午後に大震災。その時の状況を忘れることはできない」と話す。ケアマネジャーだった加藤典子・あたみホーム園長(66)は「着の身着のままの人たちに、施設にあるユニホームや、職員が家から持ち寄った(女性の下着を含む)衣類を着てもらった。施設も水、食べ物、ガソリンもない状況になった。施設が電動ベッドを購入した時期で、廃棄予定のベッドがたくさんあって対応できたことが幸いだった。その後、入所者のケアプランを富岡の職員と相談しながら決めた」と振り返った。

 

 

雪の降る猪苗代湖畔、湖南町舟津の「ケアハウス小磯」から郡山市に向かう車中で早津憲一・法人事務局次長(52)は「11年3月11日、これから通る国道49号線で私は郡山の自宅に。反対車線は会津若松、新潟方面に逃れる車で大渋滞していた。能登の人たちも同じ思いをされたと思う」と気遣った。

 

自然災害はいつやってくるか分からない。能登半島地震では志賀原発の危険もあった。法人、個人も震災に立ち向かえる施策、心構えの大切さを13年前の証言が物語っていないだろうか。

 

太田福祉記念会 太田三知子・4代理事長。法人本部は郡山市熱海町玉川。1978年に社会福祉法人に認可された。初代理事長は太田辰雄氏。現在、高齢者施設3、デイサービスセンター3など。職員数は216人。