社会福祉法人風土記<2>東京光の家 上 失明傷痍軍人らの自立支える
2015年05月19日 福祉新聞編集部視覚障害者のための総合福祉事業を展開している社会福祉法人「東京光の家」は、東京都の西部、日野市にある。JR中央線で都心から1時間以内の地域だけに都市化が進む。最寄りは豊田駅、閑静な住宅街の中にある。
生活保護法による救護施設「光の家神愛園」のほか、障害者総合支援法による指定障害者支援施設(訓練型)「光の家新生園」、同(就労型)「光の家栄光 園」、障害者通所就労施設「光の家就労ホーム」、障害者自立支援センターと盲人ホーム「光の家鍼灸マッサージホーム」、「地域交流センター」の6施設を運 営している。
創立者は、キリスト者、秋元梅吉=1892(明治25)年生まれ、1975(昭和50)年没=。中 野区の大地主の5人兄弟姉妹の末っ子、生まれつき視力が十分でなく、5歳ごろに失明した。このため小学校には入学できず、しばらくは自宅で生活していた が、14歳になって国立東京盲啞学校=1888(明治21)年設立、後に国立盲学校、現筑波大学付属視覚特別支援学校=に入学した。
友情と信仰深める
同校では、後に日本盲人会連合会長となる京都ライトハウス創始者の鳥居篤治郎らと机を並べた。キリスト教の伝道集会に出るなどして友情と信仰を深めるうち、無教会主義の創始者、内村鑑三と出会い、聖書集会に入会、信仰を持ったことが秋元の生き方を一変させた。
「内村鑑三先生からキリストの信仰を学ぶことにより、私の人生観は180度転換した。旧い私は死に、新しい私が誕生した。不平と不満の私は死に、希望と感謝の私が生まれた」(光の家創立50年誌)と語っている。
1916(大正5)年、23歳で卒業、一時は教職に就く。3年後には友人3人と、「盲人に聖書の福音を」と、「盲人基督信仰会」を豊島区に設立、月刊基督 教点字雑誌「信光」(のち「信仰」)を発行した。日本語訳の旧約聖書は出版されていたが点訳本はなかったので視覚障害者の仲間と点訳に取り組み 1924(大正13)年に全23冊に及ぶ旧約聖書点訳本を完成させた。1881年のイギリスに次いで世界2番目の快挙と伝えられている。
信仰会は、1933(昭和8)年「東京光の家」と改称、2年後に杉並区に移り、点訳聖書の出版、キリスト教関係図書の点訳・出版事業のほか、盲人ホームの 経営、盲女性のための新職業の開拓や中途失明者の指導など福祉事業も始めた。戦時中の昭和19年、物資不足から印刷用紙の配給を受けるために他の点字図書 出版業者との合併を余儀なくされた。終戦後、合併した相手から「盲人福祉のために」と印刷設備の譲渡を懇願されると、「お人よし」の批判を退け、設備を あっさり譲った。
福祉の道一筋に進むことになり、盲人の宿泊や更生事業に専念する。昭和24年に生活保護法による保護施設として認可を受け、居室の整備を行い、昭和25年には財団法人の認可を受け、秋元は理事長に就任する。2年後には社会福祉法人に組織変更した。
当時、戦地から帰還した傷痍軍人ら中途失明者のための更生施設国立光明寮が近くにあったこともあって東京光の家にも入所者が急増し、更生施設、さらには救 護施設としての役割も増した。当時は入所定員40人だったが、増築に次ぐ増築も限界に達し、住宅地の杉並では敷地を広げる余地はなく、移転が大きな課題と なった。
杉並から日野へ移転
移転の準備などで多忙になった秋元理事長を手助けし たのが教員になっていた長女(ノゾミ=1932年生まれ)。同じ教員仲間と信仰が縁で結婚、施設の近くのアパートで結婚生活をしていた。その相手が田中亮 治第2代理事長(85)で、やがて全面協力者として、教員を辞めた。田中理事長は当時を回想して、「移転に際して、自己資金は全くないが、というと、『そ んなことは心配する必要ない。とにかくやればよい。金は後から付いてくる。まあたのむ』といって笑っているだけだった。そう言われて大変戸惑ったものだ が、事態は秋元の言う通りになるから不思議である」と回顧している。
「もはや戦後ではない」の経済白書の発表か ら2年経った昭和33年3月、移転が実現した。一面雑木林と畑の土地は約7920平方㍍、秋元理事長の信仰の友の紹介で購入できた。新施設は木造平屋建 て、本館と男子寮、女子寮、炊事場、風呂場、倉庫の6棟、計809平方㍍の規模。定員48人、職員14人だった。財政的に窮迫し、自転車操業を強いられ た。
【若林 平太】
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