社会福祉法人風土記<18>仙台キリスト教育児院 下 地元に求められ特養も開設

2016年1226 福祉新聞編集部
シオンの園のユニット棟は東や南向き

「創立から30年近くたった今、畳の床にしみ込んだ子どもたちの夜尿、ご飯や味噌汁が垢となって食堂の板にしみ込んだ臭気、汚れた衣類を着た子どもたちの臭気……いろんな臭いのカクテルが子どもだけでなく保母の体にもしみ付いているのではないか。異様な臭気に吐き気を催さずにいられない」

 

1932(昭和7)年に7代目院長に就任した大坂鷹司(1897~1971年)は、仙台キリスト教育児院で迎えた初日の驚きをこう回想している。この驚愕が施設改革の情熱に火をつけた。

 

大坂鷹司 7代目院長

 

戦前・戦中・戦後の35年以上にわたる院長時代(1932~68年)に、今日の法人の基盤が出来上がった。育児院(現在の「丘の家子どもホーム」)を軸に、乳児院(現在の「丘の家乳幼児ホーム」)、精神薄弱児施設(現在の「知的障害児施設宮城県啓佑学園」)、没後にできた情緒障害児短期治療施設「小松島子どもの家」など、多様な受け皿を次々と増やした。

 

大きな貢献は、1935年に施設を現在地の仙台市青葉区小松島地区に移転させたことだ。小高い丘に広がる農地2万坪余を当時の金額1万円という格安値段で手に入れた。宿舎建設だけでなく、畑、果樹園、牛舎も整備して、その後の自給自足体制に備えた。

 

移転当時の写真を見ると、周辺には何もないほどだだっ広い。この地域の“先住者”だった。JR仙台駅北東約5㌔、地下鉄駅が近くにある便利さから、現在では郊外住宅地として栄えている地域だ。

 

しかし、住宅に囲まれる福祉施設はどこも近隣住民との間でデリケートな問題を抱えており、地域社会の理解が不可欠だ。仙台キリスト教育児院が地域と共生・協力関係にある象徴とも言えるのが、1993年にオープンした特別養護老人ホーム「シオンの園」だ。野呂勉園長(75)が経緯を語る。

 

野呂勉 園長

 

「地域の人たちから『これからは地元に老人ホームが必要だ』という声が上がり、小松島地区の福祉ニーズをアンケート調査したところ、地元住民の要望がはっきりと数字で分かり、建設が決まりました」

 

1906年の創設以来、子どもの施設だったところに、経験のない老人施設の開設。しかも当初は新卒採用職員が圧倒的に多く、職種間の不協和音も出て、チームケアの難しさが次第に浮き彫りになっていた。

 

そんなとき、開設4年目に養護課長としてシオンの園に異動してきた野呂は、それまでのトップダウンを現場重視に改めた。

 

「例えば、マスク一つ買うにしても、現場の職員が決めるのではなく、現場の実情を知らない会計担当者が発注していた。私はパート職員にも聞いて、いい品質の物を業者に持って来させて、私の決済で買うようにした。このように当時は経営と現場に多くのズレがあったが、改革するにつれて信頼関係が次第に生まれた」と振り返る。

 

高齢化社会が進み、開設当初の鉄筋コンクリート造り3階建て(定員50人)に加えて、創立100周年を祝う2006年には個室だけのユニット棟(定員20人)を増床した。

 

ケア内容も認知症利用者が増えるにつれて難しさを増しているが、10年前から個別対応を重視する方針に切り替えた。利用者一人ひとりの人柄や行動パターンをきめ細かく記した「24時間シート」を作成、職員の専門性を高めて個別に密度の濃いケアを目指している。

 

5年前の東日本大震災の時は、混乱の中、非番の職員を含めて全員が職場に駆け付け、利用者70人を安全なホールに移し、避難してきた近隣住民40数人にも場所を提供した。

 

「55人の職員には創業時のキリスト教精神『一人ひとりの思いをくみ取る』を大切に、と言っています。園長の私も施設内を回り利用者に声を掛けます。顔と名前が一致することで皆さん安心するんです」

 

施設と地域との関係を示す活動がある。地元の小松島小学校内にある「小松島社会学級」のメンバー6人が、毎週火曜日にシオンの園に来て掃除のボランティアに励んでいる。22年も続いており、「ここは自分たちの施設だという特別な思いがある」「利用者の皆さんは自分たちの親世代なので、親孝行の気持ちでやっている」と変わらぬ笑顔で接する。

 

もう一つは月1回、園内で「ボランティア喫茶」を開く「マルコの会」だ。コーヒーとケーキを味わいながら、音楽療法士が奏でるアコーディオンに合わせて童謡、唱歌を歌う利用者たちから笑顔がこぼれる。17年も続く地元の人たちの善意こそ、地域と施設を結ぶ架け橋になっている。

 

 

【網谷隆司郎】