社会福祉法人風土記<17>白皇山保護園 上 私財投じ全国から患者受け入れ

2016年1107 福祉新聞編集部
左から得浄住職、秀顕住職、西浦博・第3代理事長

「不幸な人達が、長く並んだ、前に棒のある部屋に、まるで動物園の動物みたいに入っているのは、悲しい光景であった。……ニューヨーク州のユテイカにある大きな収容所で見たのと同じ様な、痴呆と鬱憂病の典型的な容態を見た。私はある人々と握手をし、彼等はすべて気持よく私と話したが、彼等の静かな『サヨナラ』には何ともいいようのない哀れな或物があった」 (『日本その日その日』東洋文庫)

 

E・S・モース(1838~1925年)は明治時代初め、東京市立救貧院の様子を自国の事情と重ね合わせ、こう記す。東大の「お雇い外国人」教授として来日、縄文時代の大森貝塚(東京)を見付けたアメリカの生物学者である。

 

公的な施設が不十分な中、民間から伸びる優しい手があった。おわら風の盆で知られる富山市八尾町の山あいに建つ浄土真宗「白皇山光西寺」(西本願寺派)の8代目、房崎得浄住職(1863~1953年)。富山県で唯一の救護施設「八尾園」と障害者支援施設「野積園」を運営する社会福祉法人「白皇山保護園」(西浦博理事長)の芽を育んだ〝山寺の和尚さん〟である。

 

きっかけは、「神経衰弱」から放浪性精神こう弱になった元歩兵将校の家族の願いだ。「悲惨ノ状態…見ルヲ忍ヒサルモノアルニ至リ」、得浄は寺(当時地名は婦負郡野積村)の一室を開放。仏の教えなどとともに「自然療法」を施した。中国の気功の心得があったとの見方もある。効あって元将校は回復。それを聞いた県内や石川県、東京などから精神障害者らが集まってきた。

 

貧しい者は医者にかかれず、障害者がしばしば家の片隅に隠された時代であった。彼らを人として扱い、最後のよりどころに−得浄は1916(大正5)年、私財を投じて約70人を保護善導する「野積保護園」を立ち上げた。ちょうど100年前である。

 

「あごひげを伸ばした、情け深い人でね。世話係が利用者を怒ろうものなら、『かわいがらねば』とたしなめてたよ。それに、利用者たちの頭をなでてあげていたね」

 

彼を知るわずかな人のひとり、本田秀雄さん(92)は言う。周りから〝花名人〟と呼ばれる、最長老の現役法人職員である。村で育ち、光西寺を遊び場にし、寝泊まりもしたという。

 

篤志家の寄付などもあり、庫裡を改造(1921年)したり、収容室(280平方㍍)を新設、さらに第2期工事(1935年)、第3期工事(1938年)と拡充していく。この間の1933(昭和8)年、長男の秀顕(1896~1973年)が9代目住職となり、園のかじ取りを継いだ。

 

秀顕らの書いた「保護台帳」「診療録」「退園者調書」「家族及同居人配給米調」など18冊に及ぶ記録が寺の蔵にある。

 

「見ますか」。得浄の孫で10代目の公陽住職(58)が並べてくれた。大正期までさかのぼる障害者福祉の一端を示す貴重な資料だ。

 

光西寺に残る大正、昭和期の資料

 

そのころ、世は不況と動乱の下にあった。第1次世界大戦(1914~18年)、関東大震災(1923年)、世界大恐慌(1929年)。職を失って路頭に迷い、心を崩す人は少なくなかったろう。

 

一山越えれば飛騨高山(岐阜県)。冬は雪に閉ざされ、夏は涼しい。

 

得浄、秀顕父子を先頭に礼拝、境内散歩といった日課のほか、利用者は裏山の開墾に協力し、炊飯のまき割り、農繁期には近くの農家を手伝った。自給自足の姿が垣間見える。

 

設立申請書によれば、創立から1938(昭和13)年まで年に約200~50人を預かり、「無料収容」者も5分の1ほどいた。富山県や石川県の入所者が多いのは当然として、京都、東京、新潟、長野、遠くは山口、北海道、満州までいる。中心は精神科領域の患者だが、健常者も交じっていた。「全快」「良好」として退園する人もまた、少なくない。2人の献身や静かな山間での開放的な日々が心身を落ち着かせたのだろうか。

 

そして敗戦へ。浮浪者、戦災者、引揚者、傷痍軍人らは全国にあふれた。間の悪いことに木造施設は老朽化、使用を一時停止したが、野積村が借り受けて補修、村営の施設(生活保護法)として1949年再出発した。

 

前史(創設期)に続く揺籃期の幕が上がる。

 

【横田一】