社会福祉法人風土記<15>和進奉仕会 下 地域に溶け込む施設運営

2016年0919 福祉新聞編集部
和進館ふれあいセンター

名古屋市内で保育園と児童養護施設、それに特別養護老人ホームを運営する社会福祉法人「和進奉仕会」(吉田寛一郎理事長)。その前身の事業は第2次世界大戦末期の空襲で一時中断されることになる。

 

1947(昭和22)年に傷痍軍人や遺族のための「和進授産所」として事業が再開された。さらに2年後に、保育事業が中断する前の守山区廿軒家から同区長栄に移動して再開園された。戦後の物資不足で食糧や衣類の調達に苦労しての再スタートだった。

 

児童養護事業は1951(昭26)年に、保育所の敷地内に「養護部」として設置されたのが始まりになる。保育所の中に児童養護施設を作ったことから「保育部」と「養護部」の名前が付けられた。当初は小学校に上がる前までの乳幼児が対象だったが、その後に小学生以上も受け入れるようになった。

 

東海地方に甚大な被害をもたらした1959(昭和34)年の伊勢湾台風で「建物は半壊に近い状態」(吉田理事長)だったことから「養護部」を守山区廿軒家に移転。これをきっかけに「保育部」を「和進館保育園」に、「養護部」は「和進館児童ホーム」と名称を変更して、現在に至っている。

 

ところで、児童養護施設の運営は3代目の石田太禅理事長(1919〜1997)の考えによるもので、当初は「家庭のない児童にとって、家庭から通園してくる園児と同じ場所で保育するのはかわいそう」と反対の声もあったようだが、「子どもの世界は同一。差別として見るのはおかしい」と、一緒に保育されるようになったようだ。

 

石田太禅・第3代理事長

 

「和進館児童ホーム」の卒園生は現在までに約800人にも上る。毎年1月2日には「けやきの会」という名前の同窓会が開かれ、卒園生たちが妻や夫に、子どもたちも連れて集まってくるという。吉田理事長は「帰る場所がある子はいい。帰るところがなく、寂しい思いをしている子どもたちに、少しでも羽を休める場所があればと思ったのです」と話してくれた。

 

話が前後する。1952(昭和27)年に財団法人から社会福祉法人に変更されたのだが、初代理事長の寛行は母親の出身地の平田(現・西区平出町)にも保育園をつくりたいとの思いがあった。戦災で壊れた「和進園」(守山区廿軒家)から建築材料を運び出し、地域の人たちの奉仕で、保育室が建てられた。これが現在の「平田保育園」になる。

 

高齢者福祉事業は1995(平成7)年の「和進館ふれあいセンター」の新築と同時に開始された。特別養護老人ホーム「平田豊生苑」で、「平田保育園」との複合施設だ。3代目の石田理事長は法人の50年史「和進」(1982年刊)で次のように書き記している。「創立者の寛行翁が私に期待されたのは『和進の教え』の実践と老人ホームの設置経営でした」というのだ。法人の創立者、寛行の意思が特養開設につながっていく。

 

さらに、2009(平成21)年には「和進館児童ホーム」を全面改築した「和進ふれあいセンター」に特別養護老人ホーム「守山豊生苑」が開設される。平田と守山の豊生苑では入所者を「住人さん」と呼ぶ。「主役は住人さんで、お手伝いをするのが職員」という考え方だ。施錠や身体的な拘束はしない。ベランダや玄関も自由に出入りができる。

 

平田豊生苑の吉田泰成苑長は言う。

 

「出入り口が一つしかないから、デイサービスで来るお年寄りと園児の交流が自然にできる。園児や徘徊の高齢者が(施設から)出て行かれてしまうのが心配の種だったり、冷や汗をかくこともあるが、施錠してしまうことは地域の人たちとの距離が開いて、疎遠になってしまうと思います」

 

平田豊生苑が開設されて今年で21年になるが、当初は2階建てだった保育園が5階建ての建物に、それも特養が開設されることに地域の懸念もあったようだが、吉田苑長は「近くの人から、ここに特養があって良かったと言っていただけるようになりました」と手応えを話す。1階の食堂には赤ちょうちんがぶら下がり、地域の人もお酒を楽しめるというのが、何ともほほ笑ましい。

 

法人が運営する保育園、児童養護施設、特養とそれぞれに地域に溶け込んでいるのがよく分かったが、吉田理事長の「年寄りも子どもも一緒のところで生活なり、自然に交わるということは、非常にいいことだと思っています」という言葉が印象的だった。

 

【澤 晴夫】