社会福祉法人風土記<13>函館市民生事業協会 上 原点は貧民対策の民生事業

2016年0704 福祉新聞編集部
方面委員の杉崎郡作(左)と本田嘉夫元理事長

大正から昭和初期は、第一次世界大戦後の不況、昭和恐慌、そして戦時体制へという社会的動揺の時期。北海道では、毎年のように洪水、冷害凶作、凶漁などが発生。函館ではたびたび大火にも見舞われ、1934(昭和9)年の函館大火では焼失戸数1万戸、死者2千人を超えた。北海道移民はピークを迎え、失敗して流出する者も増加、津軽海峡を隔てて北海道の玄関口だった函館は失業、売られていく娘など貧窮をめぐる社会問題をかかえつつ都市貧民街が形成された。1917(大正6)年、貧民・窮民・防貧対策として済世顧問制度が岡山県に創設され、北海道では5年後に保導委員の名称で道内6市に設置された。1930(昭和5)年の保導委員数は全道349人、中でも函館は179人と際立って多い。全国に広がった制度はやがて方面委員制度に統一され、戦後は民生委員制度となる。

 

1933(昭和8)年、北海道方面委員会の補助機関である「函館方面事業助成会」が設立された。社会福祉法人「函館市民生事業協会」の原点である。

 

■方面委員が大活躍

 

現在、法人が経営する「函館市松陰母子ホーム」の前身・母子寮「常盤寮」は、函館方面委員有志155人の提唱と拠金をもとに建設されたものである。

 

方面委員は1946(昭和21)年に民生委員と改称、函館方面事業助成会も「函館市民生事業助成会」となった。現在の社福「函館市民生事業協会」は、これを「法人の前身」とするが、この時点では民生事業を支援する団体であって施設は経営していない。「助成会」の会長は歴代函館市長で実質的責任者は副会長の杉崎郡作(1884~1973)であった。 杉崎は保導委員設置の当初から補助員として民生委員歴をスタートし、1939(昭和14)年から市会議員も務めていた。1948(昭和23)年に民生委員と議会議員等の兼職禁止の通達が厚生省から出された時、杉崎は「生涯かけて民生事業・民生委員に打ち込む」と言い「何の屈託もなく市議の座を捨てた」(『函館市社会福祉協議会10年史』)。

 

函館市民生事業助成会が初めて施設を経営するのは、本田嘉夫(1923~1995)が事務局長に就任する1950(昭和25)年である。財団法人となり「函館民生寮」「函館縫製作業所」の経営を開始する。

 

杉崎は、1947(昭和22)年に北海道民生委員連盟副会長(のちに会長)、1951(昭和26)年には函館市社会福祉協議会と北海道社会福祉協議会の初代会長に、4年後には全国社会福祉協議会の副会長となり、“函館の杉崎”は、次第に“全国の杉崎”に変貌を遂げる。法人の経営は本田嘉夫(昭和35年に常務理事、のちに理事長)が切り盛りしていくことになる。

 

■命がけの職員

 

戦後の函館は樺太と千島列島からの引揚者らであふれる街でもあった。市経営の無料宿泊所が法人に委託されて更生施設「函館民生寮」となり、民生寮には、1年間で延べ3万8978人が利用、函館駅にたむろする浮浪者、家出してきて行き先のない者、一旗あげようと函館へ出てきたが一文無しになって路頭をさまよう家族、そんな人々が入寮していた。1962(昭和37)年には殺傷事件が起きた。来訪者2人を施設入所者が刺殺したのである。当時の施設を取り巻く環境は荒んでいた。まさに職員は命がけだったという。

 

「函館縫製作業所」は、1955(昭和30)年に生活保護法による授産施設「函館高砂授産場」となり、授産場長兼務の本田嘉夫は、当時現物支給であった学童服の製作受注を市と渡島支庁から取り付ける。しかし、学童服製作は半年間、残りの半年は仕事がない。奔走した本田は赤崎工業(岡山県)が北海道で販売する作業服縫製2000着の契約に成功し「授産場」は軌道に乗る。

 

1951(昭和26)年、母子寮「常盤寮」と「常盤寮付属保育園」が法人に移管され「函館市松陰母子寮」「函館市松陰母子寮付属保育園」と改称。財団は翌年、社会福祉法人になり、1955(昭和30)年に現在の社会福祉法人「函館市民生事業協会」となる。1954(昭和29)年には「函館高砂母子寮」と「函館高砂保育園」を開設する。

 

 

【荻原芳明】