大義についた女性たち〈コラム一草一味〉

2026年0813 福祉新聞編集部

学校法人敬心学園 参与 蟻塚昌克

 歴史の分岐点では、大きな流れや不条理を前にしてどうすることもできず、時に人生が翻弄ほんろうされることがある。

 その多くはこどもたちだ。第2次大戦後の日本には、戦災孤児だけではなく、米軍関係者との間に生まれた混血児と呼ばれるこどもたちがいた。こうした事情は朝鮮戦争の戦禍を経験した隣国にも共通しており、くしくもこの時代に両国で日本人女性がこどもたちの保護に明け暮れている。

 父親が朝鮮総督府の役人であった田内千鶴子は、1930年に朝鮮半島南西部の木浦市で孤児救済に取り組んでいた伊致浩と結婚。木浦共生園と名付けた苫屋で、こどもたちの世話に寝食を忘れて没頭するようになる。同時期、英国で日本外交官夫人の澤田美喜はロンドンの児童養護施設を訪れて、この仕事こそが生涯の自分の役割と確信を深めるようになる。

 終戦を迎えると、田内は混乱と窮乏の中で、さらに多くのこどもの世話に当たる。日本に戻った澤田は、時がたつにつれて、生まれた肌の色が違う乳児が遺棄される事態を見聞。1948年に神奈川県大磯町に混血児の乳児院、エリザベスサンダースホームを開く。

 2人の活動は常に困難が付きまとい、苦労の連続であった。中でも最大のものは、当時の緊迫した政治情勢だ。朝鮮戦争下で、田内の夫はこどもたちの食料調達に出掛けたまま行方不明に。北朝鮮軍からはスパイの嫌疑をかけられ、韓国軍からは共生園の名称から共産主義のシンパとの疑義を持たれる。澤田は渡米して、占領下の日本で米軍関係者の性暴力や不道徳により何が起きているのか、各地を歩いて訴える。しかし、その活動は、連合国軍総司令部(GHQ)には占領政策への痛烈な批判であり、澤田と周辺は好ましからざる人物たちとしてGHQに監視される。

 やがて田内は3000人のこどもを育て上げ、韓国孤児のオモニ(母)と呼ばれる。澤田の児童福祉施設からは、60年間に1600人が旅立っていく。

 2人の生き方は、あえて歴史の流れに抗あらがい、人としての道理を尽くしたものとなる。まさに大義につくとは、このことだろう。追悼の8月。社会福祉もまた関係者に振り返りを求めている。

1 Comment
インラインフィードバック
すべてのコメントを見る