社会福祉法人風土記<18>仙台キリスト教育児院 上 110年不変の精神背負う

2016年1212 福祉新聞編集部
鈴木重良院長

「この社会福祉法人で働く職員150人のうち、キリスト教徒は私を含めて6人だけです」

 

そう話す鈴木重良さん(67)は、学生時代からボランティアでこの施設で働き、大学卒業後の1974(昭和49年)年正式に就職して以来43年間、一筋に子どもたちと接してきた。今では社会福祉法人「仙台キリスト教育児院」の常務理事・院長を務める。

 

法人名に「キリスト教」が付いているのは、1906(明治39)年の発足以来110年間変わらない。太平洋戦争中「鬼畜米英」を叫ぶ政府・軍部に「看板からキリスト教をはずせ」と命令が出されたが、屈服しなかった。戦後再出発の際の定款改正でも、第1条に「基督の精神に基づき」と記し改めて高らかに宣言した。戦後71年たった今、冒頭の発言のように職員にキリスト教徒は少ないものの、その精神は失われていないと鈴木院長は言いたげだ。

 

創立はキリスト教徒によるものだった。明治初め以来アメリカから日本に布教・伝道のためキリスト教の各宗派が渡ってきた。

 

日露戦争で農村から一家の働き手が徴兵されていた1905(明治38)年の夏、宮城・福島・岩手の東北3県が凶作に見舞われた。仙台に各宗派が集結して大々的な救援活動が行われた。そのなかで米国メソジスト監督教会の婦人宣教師が翌年2月、仙台市内の同教会員だった日本人宅に「育児院」を創設、まず女児5人、男児4人を収容した。

 

これが「仙臺基督教育兒院」、今の「仙台キリスト教育児院」の始まりだ。初代院長は1889(明治22)年に来日して日本の事情に通じていたミス・フランシス・フェルプスだった。

 

フランシス・E・フェルプス 初代院長

 

「幼い少女が3ドル程度で満州に売買されるという衝撃的な報告がありました」「子どもたちは極度の空腹のため食事を取るにはかなり胃が弱っていて、眼に炎症を持っている子も多い」「でも育児院の男児の大半は勉強ができて、エネルギーに満ちあふれています。日本の若者には希望や期待が持てます」

 

ミス・フェルプスが米国本部にこまめに送った報告文書からは当時の様子が生々しく伝わる。

 

その後アメリカ人宣教師が5代目まで院長を務めた。設立から10年たった1916(大正5)年の報告書によると、合計339人の子どもたちが退園して、聖職者になった男子、聖書学校に通う女子のほか、染物屋、畳屋、ケーキ屋、写真館、看護婦、鉄道員、農業、印刷屋など多様な仕事に就いており、自立のための教育に力を入れていたことが分かる。

 

1923(大正12)年9月の関東大震災発生後、仙台への救済資金の流れが細くなり、他の救済団体への吸収の動きもあり、育児院は廃止の危機を迎えた。

 

そこを救ったのが、日本各地のみならずアメリカでも伝道活動をしていた牧師、北野高彌だった。仙台キリスト教育児院創設時から縁があり、1924(大正13)年に6代目、日本人初の院長に就任した。

 

資金不足、経営困難のため「解散しよう」との声が高まったとき、北野は憤然として「外国からの補助金がなくなったからといって解散するのでは、今日まで援助してくれた人々に申し訳ない。日本人の子どもは日本人の手で救済すべきだ」と一蹴、それまで以上の寄付金獲得に乗り出した。

 

その路線を継承して、1932(昭和7)年、7代目院長に就任した大坂鷹司は財政基盤の強化を図る。その年に施行された救護法により国家レベルでの児童保護政策の転換があり、育児院は救護施設の認可を受け、委託費という公的支援が得られた。

 

戦前・戦中・戦後の35年間にわたり、この施設に一生をささげた大坂も牧師だった。育児院を現在地、仙台市郊外の青葉区小松島に移転、新築するなど経営努力をする一方、「牧師のハートをもって罪なき孤児を育んでもらいたい」との激励を胸に、乳児部や私立小学校を設けるなど、院内を「一つの家族」にするよう尽力した。

 

毎週日曜の朝、鈴木院長がキリスト教の言葉を話す「丘の家ホール」

 

その精神は牧師である現在の鈴木院長にも受け継がれている。毎週日曜朝には、院内の「丘の家ホール」で聖書の言葉を子どもたちに説いている。

 

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方もしなさい」

 

この愛の言葉は子どもたちのみならず、職員・スタッフへも向けられている。

 

【網谷隆司郎】