社会福祉法人風土記<6>愛友園 戦前編 下 浮浪者保護に乗り出す
2015年10月16日 福祉新聞編集部昭和金融恐慌の影響は水戸地方も例外ではなく、物乞いしながら放浪する浮浪者が多く、ニコルソンを頼る浮浪者が後を絶たない。物乞いに来るとニコルソンは、会って、話を聞き、その人の体力と能力に応じて、庭の掃除や水くみなどの仕事を与えては50銭玉を渡していた。木賃宿に泊まって、風呂に入って、夕飯と朝食を食べられる金額だった。「50銭ももらえる」との風評が広がり、さらに訪ねてくる浮浪者が増えてしまったのだ。さらに困ったことに、翌日は別の土地に行ってくれれば問題はなかったが、門の脇に建てた6畳程度の無料休息所で酒を飲む者、酔って帰ってきて寝込む者もいて、近所から苦情が寄せられるようになった。
これ以上動けないという高齢者や障害者の中には、行くあてがない者もいた。島村卯之助(1891~1948)はそのひとりだった。以前来た際にうそを言ったので謝りたくなって来たという。島村は、17年も浮浪していたという。「心の中で何かが起きたのだろう」と感じ、ニコルソンは事情を聞いた後、一晩泊めて、1円を渡し水戸市内の教会を紹介した。島村はそのお金でクレオソートとバケツ、タワシを買って、教会などの便所を掃除して回り、駄賃を得たのだろう、夕方に1円を返してきた。感心したニコルソンは、ちょうど庭師が病死した後だったため島村を後任として雇用することにした。ほかに、殺人、強盗とかの前科があり、33年間も刑務所にいたという体の不自由な老人もいて、この老人は家に置いて世話することにした。身寄りのない老人たちが暮らせる施設が県内にはないことが分かり、ニコルソンは「働けないのに働けというのは無理だ。養老院ぐらい造るべきだ」と1934(昭和9)年に小規模の施設を建てた。
水戸に養老院開く
しかし、まもなく入所第1号だった前科のある老人の放火で全焼、1人の老女が焼死した。火災の翌年、ロックフェラー財団などからの資金援助で、水戸市東原町の南向きの台地に20人ほどが暮らせる新しい建物を建て、「紫苑寮」と名付けた。社会福祉法人「愛友園」の始まりだ。ちょうど80年前のことだった。
ニコルソンが活発に事業展開していたこの時期、国内事情は、満州事変勃発1931(昭和6)年、国際連盟脱退1933(同8)年など「きな臭さ」が増し、ニコルソンに対する当局の監視が厳しくなった。「山羊のオジサン行状記・キリストの愛の軌跡」(ニコルソン著)の記述によると、刑事が毎月やってきて「満州事変についてどのように考えているか」と、しつこく思想調査が行われ、農村に出かけた際にも刑事が尾行して、訪問した先での発言内容をひとつ残らず聞き出していく。また、「外人と話すべからず。外人はスパイかもしれぬのだ」というチラシが各地に張り出されるようにもなった。
1939年1月になると、東京のクエーカーのフレンド教会本部から、「資金がアメリカから入らなくなり、これ以上日本にとどまることは無意味である」と伝えてきた。これまでの活動資金はほとんどが本部から支出されていたため、ニコルソンは、アメリカ帰国を決意し翌年、神戸港から帰国した。帰国に際して、貧しい老人のための寮は島村を寮長に、日本人スタッフに託し、放火犯の老人は東京の老人ホームに預けた。山口晋と共同で行っていた酪農場は黒字だったが、百貨店での直販事業は失敗、負債があったので家財道具を売却して一部を返済、残債はアメリカに帰国後、自分の年金から返済するなど、きちんと始末をつけた。山口は後日、「省みて―ニコルソン先生と福祉の心―」の著書の中で、「ホームに火をつけた老人をおいていったのでは大変だと考えて、懇意にしていた方に預けたのでしょう。アメリカ人は自分の責任範囲というのは、必ず最後まで守るのだ」ということをいわれましたが、その通りだと思いましたと感慨深く記述している。
日系人支援に立つ
帰米したニコルソンは、日系人の依頼で、別の宗派のロサンゼルスの教会で牧師を引き受けていた。1941年12月7日(ハワイ時間)、日本軍の真珠湾攻撃でロスの街は灯火管制が敷かれ、翌日からは潜在的な危険分子とみなされた700人以上の日系人が次々にFBIに検挙された。これを知ったニコルソンらは、日本への憎悪の渦巻くアメリカ社会の中で、「アメリカの良識を守るフレンドの会」を作り、日系人強制収容に反対の声をあげ、日系人の荷物や財産を守る活動、連行されるバスや列車の座席に、パン、ドーナツ、コーヒーなどを置いて慰め、励ます活動もおこなった。
(若林平太)
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