【大正大・中】教育と実践で人材育成
2026年02月24日 福祉新聞編集部
大正大学社会事業研究室を担った長谷川良信(のちに淑徳大学創設)は、「社会事業に於ける人材育成の急務」(1916年)の論稿で「事業資金ではなく、人材の育成にある」として社会事業研究所や社会事業科の創設を訴え、その寄せ書きには渡辺海旭が「言ふ所實に我言はんと欲する所にして、立論誠に吾が胸臆を出したると同じ」と述べ、さらに長谷川が大学セツルメント(大学殖民運動)の意義を学生に向けた「大學殖民運動を頌(しょう)す」(17年)では「死學の奴隷たるを要せず、活學の妙諦を発揮せられよ」と訴え、地域研究と教育活動を並立させたセツルメント(隣保館)の「マハヤナ学園」を大学近くに19(大正8)年に創設。まさに地域福祉実践による実学を重視した教育と実践の両輪となる社会事業従事者養成の原点となった。 この地域には石井亮一、筆子夫妻が創設した日本初の知的障害児教育施設「滝乃川学園」や孤児教育を目的とした渋沢栄一が院長だった養育院巣鴨分院があったことにも注目したい。4年後の23(大正12)年に関東大震災。30(昭和5)年から34年にかけて東北地方を中心に昭和東北大飢饉が発生した。

長谷川良信氏(前列中央)、吉田久一先生(後列左)
強いられた軍事教育
その後「大正大学専門部学則」の変更を重ね、仏教学科を卒業後、修業年限1年の「社会事業専修科」(35年)を置いてカリキュラムを整えた。また長谷川を中心に矢吹慶輝が創設の三輪学園で主幹を兼務した谷山惠林も社会事業史を担った。しかし渡辺が逝去(33年)した後、在職中の谷山(38年)と矢吹(39年)が相次いで逝去した。さらに第2次世界大戦(39~45年)下では、軍事教育に占められた皇道仏教研究所や東亜学科の設置を強いられ、修業年限の短縮による学徒出陣も強行され、45(昭和20)年の城北大空襲で大学校舎の焼失を免れても研究室にとって激動の時代であった(『大正大学社会福祉学研究室100年史』)。
社会事業史研究の碩学
日本の社会事業史研究の碩学(せきがく)と呼ばれる吉田久一(1915~2005)は、大正大学専門部に進学(1935年)して仏教学と史学を学んで研究室に入った。吉田の福祉実践は、研究生代表としてセツルメント・敬隣園のボランティア実践に始まり、学生社会事業連盟への参画や全国の施設踏査および中国、朝鮮半島の資料調査などに専念。長谷川の勧めでマハヤナ学園・主事として地域福祉実践を進めつつ、研究室・副手となって実践的研究による社会事業史研究を深めた。その機縁は谷山が闘病の床にあっても『日本社会事業大年表』(35年)を上梓、歴史研究を続けた姿を目にし、矢吹の強い勧めで社会事業史研究を継承したという。その経緯は、研究室25周年と矢吹三回忌に捧げた『矢吹慶輝博士社会事業関係年譜』(41年)の編集代表追悼文や、重田信一(1910~2011)と吉田の『対談録』(鴨台おうだい社会事業論集第5号)にある。吉田の研究が「実践史学」や「実践的社会福祉論」と呼ばれ、多くの業績は学術論集『吉田久一とその時代―仏教史と社会事業史の探求』(2021年宝蔵館刊)に詳しい。

中村康隆第21代学長
大戦後「学校教育法」(1947年)認可を受け、「文学部社会事業専攻」(49年)として学部教育に位置付けた。その専攻の運営を長谷川がけん引し続けて退任。その後を宗教社会学者・中村康隆教授と日本社会事業大学を兼任した吉田副主任教授が引き継ぐ。中村の学長就任(1975年)に伴い、大正大学と縁が深い重田信一は、吉田の招きで明治学院大学を辞して主任教授に。翌年、日本社会福祉学会第23回全国大会の大会長になるなど社会福祉学の教育・研究基盤づくりに大きく貢献。退任後も大正大学福祉学会の会長となって原田正二主任教授に引き継ぎ、土井洋一、北澤清司、岸功、石川到覚とうがくらの教育体制を整えて社会事業専攻を学科に昇格させた。

重田信一氏
社会事業学研究室を社会福祉学研究室に改称(82年)。社会福祉職の養成教育では「社会福祉士及び介護福祉法」(87年)に則した教員とカリキュラムの体制を整えた。学部改組による人間学部人間福祉学科社会福祉専攻(93年)となり、大学進学者急増に応じた学生定員増の昼夜開講制(99年)を導入。さらに学科再編によってアーバン福祉学科(2009年)へと改名するなど相次ぐ学部・学科再編を経て、20(令和2)年には人間学部を改組し、現在の社会共生学部社会福祉学科になった。
(高野進)

