【龍谷大・上】西本願寺の「学寮」から発展
2026年04月07日 福祉新聞編集部
京都市中心部にある西本願寺境内の南西に、龍谷大学発祥の地がある。江戸時代の1639年に創設された「学寮」。僧侶を目指す若者たちが、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(1173~1263)の教えなどを学んだ60人収容の学び舎だ。
「学寮」の跡地には、明治時代に建てられた「大教校」の本館があった。2階建ての石柱の洋風建物だ。両側を取り囲むように、「大教校」の北黌(ほっこう)・南黌(なんこう)が建つ。国の重要文化財に指定され、今も大宮キャンパスの教室などとして使われている。
教育改革で欧州視察
<龍谷大学の「建学の精神」は「浄土真宗の精神」です。「浄土真宗の精神」とは、生きとし生けるもの全てを、迷いから悟りへ転換させたいという阿弥陀仏の誓願に他なりません>
龍谷大学ホームページに記された建学の精神は、当然「学寮」当初からのものだ。学寮に入った人たちは仏道を修めた「学匠」によって指導され、浄土真宗の教義などを学んだ。
150年余が過ぎた1797年に、「三業惑乱(さんごうわくらん)」と呼ばれる教義論争が本格化。混乱は1807年に終結し、「学寮」は集団指導体制に変わり、「学林(がくりん)」と呼ばれるようになった。
異国船打ち払い令(25年)が出た。一方で、鎖国を批判する声が高まった。そんな、幕藩体制の揺らぎが顕著になっていったころだった。
そして、江戸幕府の終焉につながる大政奉還の年(67年)から「学林」の改革が始まる。76(明治9)年、学林は「大教校」と改称され、全国7カ所に「中教校」「小教校」が設置され、79(明治12)年に西本願寺境内に、「大教校」が落成。それが、冒頭の本館、北黌、南黌だった。
この改革の原動力になったのが、西本願寺から派遣された島地黙雷、赤松連城らである。ヨーロッパの教育事情を視察。日は定かでないが、72(明治5)年に、「学林」にドイツ語講座ができているため、それ以前のことだと推測される。
71年12月から米国や欧州主要国をまわった岩倉使節団より早かった可能性があり、視察団にとって、すべては驚きの連続だっただろう。
教戒活動が特徴に
大教校などは1900(明治33)年に仏教専門大学、仏教高等中学・仏教中学となった。このころ、西本願寺は受刑者らの宗教的要求や心の安定を図ったり、規範意識をつけさせたりする、教誨活動に力を入れていた。
背景の一つには、キリスト教の布教活動に対する危機感があった。
1858年に締結された日米修好通商条約によって、米国人の宗教の自由、居留地内の教会設立が認められ、キリスト教は幼稚園や学校などを通じて布教、教誨活動にも熱心だった。
西本願寺は、キリスト教の布教活動に対抗するように教誨活動に力を入れ、1904年には仏教大学(現在の佛教大学とは無関係)に校名変更し、教科課程に監獄法と感化法が講義科目として組み込まれた。
龍谷大学短期大学部の部長などを務めた中垣昌美(まさよし)(1930~2020)の著書『社会福祉学の基礎』には、講義科目の新設についてこう書かれている。
<当時の監獄教誨事業の隆盛という時代的反映である>
それは、「生きとし生けるもの全てを、迷いから悟りへ」という建学の精神の発露でもあった。
大学名「龍谷」に
1922(大正11)年、仏教大学は大学令による大学となり、校名も同時に変更。西本願寺の山号である「豅」(おおたに)から、「龍谷大学」となり、初代学長には鈴木法琛(ほっちん)が就いた。
学年制ではなく、講座制が採用されていた。学科は仏教科だけだったが、社会学講座に社会学原論と社会政策の2科目を開講。担当したのは、社会事業学理論家として活動を始めた海野幸徳(うんのゆきのり)(1879~1954)だった。
日本における優生学の先鞭をつけながら、その限界に気づいて社会事業に力を注いだ海野は、当時教授だった宇野円空の尽力で、1920(大正9)年に教授として招かれた。当時41歳。産業の振興が優先されて生活困窮者が増加、福祉の概念が「慈善事業」「感化救済」から「社会事業」へと切り替わる時代でもあった。
海野は著作活動と研究活動にまい進。大学入りした翌年には海野社会事業研究所を創設、児童保護や婦人運動、老齢者保護、医療問題などを幅広く研究し、その成果を発表した。

初代学長鈴木法琛

海野幸徳教授
開学年に福祉の基盤
「われわれはもっと、社会問題に目を向けなければならない」
熱のこもった海野の声が、教室に響いただろう。
龍谷大学に「福祉」を冠した授業(文学部社会学科社会福祉学専攻)ができるのは1968(昭和43)年春。短期大学部に社会福祉科ができるのは、その6年前の62(昭和37)年春だった。
だが、龍谷大学における「福祉の起点」は、「社会事業」を広く研究した海野を擁した開学の22年に求めてもおかしくない。
学生も感化された。中垣の著書が、それを物語る。
<開講年の22年度、社会学専攻の卒業生11人の卒業論文のテーマの中には、「不良少年の研究」「結婚論」「特殊部落の研究」などが見える。社会問題への関心の高さがうかがえた>

大教校時代の建物が今も使われている大宮キャンパス
その後も、卒論のテーマには、「婦人職業問題」「児童保護事業研究」「貧困及び其その原因」などがあり、学生の社会問題への関心が続いた。
海野の活躍は、龍谷大学にとどまらなかった。同志社大学でも「社会事業原論」を教えており、同志社大学の社会福祉の基礎の一端を担った。
31(昭和6)年3月、初の女子学生が卒業。親鸞聖人の誕生日を祝う降誕会では仮装行列が行われ、大学はにぎやかだった。しかし、戦時色が濃くなるにつれて一変、軍事教練が行われるようになっていく。
(関西支局・飯塚隆志)
龍谷大学メモ
大宮(京都市)、深草(同)、瀬田(大津市)の3キャンパスに9学部1短期大学部を設置。2023(令和5)年4月、心理学部が開設される。大宮キャンパスには文学部、深草キャンパスには経済学、経営学、法学、政策学、国際学、短期大学部の5学部1短期大学部、瀬田キャンパスには社会学、農学、先端理工学の3学部がある。社会学部は25(令和7)年4月、深草キャンパスに移転する。
学生数は約2万人。学長=入澤崇。

