【駒澤大・上】“仏の本来義”を基本に
2026年04月28日 福祉新聞編集部
江戸時代、旃檀林(せんだんりん)など江戸に3カ所あった曹洞宗の僧侶教育機関は1882(明治15)年に一つにまとまり、永平寺(福井県)、総持寺(横浜市)の曹洞宗二大本山と1万4千寺院の支援で曹洞宗大学林として開校した。さらに1904(明治37)年に専門学校の認可を受け、その翌年、曹洞宗大学に改称したのが駒澤大学の起源。
曹洞宗では座禅が重視され、学問を志す者を「文字の法師」とさげすむ傾向があった。しかし、宗祖・道元禅師(どうげんぜんじ)(1200~53)が「学道用心集」の中で「仏の本来義から逸脱するような事があってはならない」と説いているとして、座禅道場ばかりでなく仏典や宗祖の教えなどを研究する学問道場も必要であるとの認識が強まり、大学開設へとつながった。

曹洞宗開祖道元禅師(木像)
その背景には、明治維新後に各地で起きた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)がある。民の救済を忘れ、幕府・大名と結びついていたことが批判され、神職や民衆により寺院が打ち壊された事件だ。1874(明治7)年には、曹洞宗本山は「葬儀は神仏とも人民の信仰に任せ、寺院の専務は教導を以って本職と相心得、精々教義研究いたすべきこと」と末寺に通達、「慈悲の実践」としての社会事業を呼び掛けた。
社会事業を実践
この時期、民間の社会事業家はキリスト教関係者が多かったが、社会事業に打ち込む僧侶たちも少なくなく、「半生を社会事業に捧げた人々」(慶福会編刊、1926年)の中に曹洞宗大学林・曹洞宗大学卒業生も紹介されている。

駒沢に移築後の曹洞宗大学林大講堂
1894(明治27)年、大分県の農家に生まれた矢野嶺雄(1894~1981)は、幼いころ母と死別、寺院で育てられ、曹洞宗大学林の聴講生として入学。卒業後、長崎県の寺で副住職を務め、3年後に大分県の光明寺住職に。1924(大正13)年のこと、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で知られる「青の洞門」がある耶馬渓(やばけい)の智剛寺に説教のため5日間滞在した。この時、禅海堂と名付けられた客室に宿泊したところ、禅海和尚が洞門を掘った際に使ったノミや鎚、托鉢に使った鉄鉢などの遺品が並んでおり、これら遺品との出合いから、大分県内にはない養老院をつくり、困窮する老人を救うことが「為すべき天職」だと悟った。
養老院をつくるなら、温泉が出る別府でと趣意書を作り、協力者を探しに網代笠と墨染めの衣姿で托鉢(たくはつ)して歩いた。さっそく曹洞宗の寺が協力を申し出てくれ、寺の一角に大分養老院を開所した。その後、事業に共鳴した別府市長夫人らが養老婦人会の名で支援団体を結成、1924(大正13)年に新たな場所に「別府養老院」を開設した。以後、天涯孤独の老人や寝たきり老人、病人、障害者らを常時約200人を世話した。また、県の方面委員、司法保護委員の委嘱を受けた。
こうした功績が認められ1928(昭和3)年には曹洞宗管長から社会事業功労者として表彰された。別府養老院は現在、社会福祉法人洗心会(矢野昌弘理事長=創設者の孫)に受け継がれ、養護老人ホーム、特別養護老人ホームを運営している。
群馬県高崎市の長松寺の山端息耕住職(1878~1965)も社会事業の実践者だ。
大学林卒業後、住職を継いだところ、本堂は高崎市北小学校の分教室に使用されていた。教室の外には親の死亡や病気、貧困のため子守奉公に出された哀れな子らの姿があり、曹洞宗寺院共同で子守小学校を開設、児童12人で授業を始めた。能力、年齢もまちまちで、規律を守れない子らに手を焼きながらも、「お守り第一」「勉強第二」で授業を進めた。その後、専任教員や保母を雇用、篤志家の寄付などで校舎を改築し、私立高崎樹徳学校に改称。1941(昭和16)年の国民学校令の施行により、44年の閉校まで937人の卒業生を送り出し、戦後も保育所、幼稚園を経営、地域に貢献した。
もう一人は、山形市の長源寺の葦原義道住職(1884~1957)。大学卒業後、長源寺住職となると境内に児童のための日曜学校を開設。仏教婦人会や敬老会も組織し、80歳以上の老人慰労会や盲人の慰安会も開いた。さらに、山形県初の方面委員に委嘱されると、県社会事業協会の組織化を図り、生活困窮者のための簡易住宅建設に多額の寄付を集め、出征軍人家族の生計状態を調査し、敏速な扶助の実現などに努めた。
駒沢へ移転
曹洞宗大学は、曹洞宗大学林時代から立地していた東京市麻布区日ケ窪町(現港区六本木)の校地が狭いため、1913(大正2)年に荏原郡駒沢村(現世田谷区駒沢)に移転した。
移転して間もない18(大正7)年、大学令が公布され、条件さえ整えば専門学校から単科大学への昇格も可能となった。仏教各宗派による連合大学構想が出てきたことから、学内では、連合構想支持派と、単独での昇格を目指す単独派が主導権を争った。ただし、昇格には文部省に納める供託金50万円や鉄筋の校舎、図書館なども大学の水準を満たすこと、教授、助教授、講師も有資格者をそろえる必要があり、莫大な費用を要する単独昇格は曹洞宗内で否決された。しかし、19年の学生大会では単独昇格を目指さないなら総退学すると決議。学生たちは帰省した際に供託金の寄付金集めに歩いたほど。結局は、龍谷、大谷大学が単独昇格を果たし、立正大学も単独で申請したことから、曹洞宗も追従し、25(大正14)年3月、単科大学「駒澤大学」として認可された。文学部のみ1学部、仏教学科、東洋文学科、人文学科3学科での船出だった。
駒澤大学メモ
仏教の教えと「禅」の精神を建学の理念、教育・研究の基本とする。創設の経緯から仏教学部に仏教学科と禅学科を設置。
戦後、新制大学に移行後は文学部、商経学部を設置。その後、法学部を設置、商経学部を経済学部に改称するとともに経営学部を設置した。近年では、2003年に医療健康科学部を開設。06年には、グローバル・メディア・スタディーズ学部を開設し、グローバル化する社会で活躍する人材を育成。
設置者は、学校法人駒澤大学。本部は東京都世田谷区駒沢。駒沢のほかに玉川、深沢にもキャンパスがある。学生数は約1万4500人。

