【龍谷大・中】根底に摂取不捨の教え
2026年04月07日 福祉新聞編集部
1945(昭和20)年夏、終戦。時代は大きく変わっていく。龍谷大学も49年に新制大学となり、文学部を開設。単科大学としてスタートを切り、翌50年に短期大学部をつくり仏教科を開設、「戦後」が始動した。
社会病理学と福祉
龍大では戦後の復興期、高度経済成長時代に、非行や自殺などを扱う社会病理学に光が当たった。龍大短期大学部の部長などを務めた中垣昌美著『社会福祉学の基礎』によると、48年から88年度までの卒業論文1652本のうち、153本が社会病理学のテーマで、社会学をテーマにした論文666本に次ぐ多さだった。
なぜ、社会病理学なのか。社会の病変は、福祉課題に直結する。社会事業の研究を続け、龍大・社会福祉の基盤を築いた海野幸徳(うんのゆきのり)(1879~1954)らの精神の投影があったに違いない。
そして、もう一つ。阿弥陀仏の誓願たる建学の精神そのものといえる<摂取不捨>の教えだ。<摂取不捨>について、龍谷大学は次のように説明する。
<阿弥陀仏の「すべての生きとし生けるものを決して見捨てない」との誓い>
この<摂取不捨>を実践すれば、社会病理を改善できる。そう考えた学生が、社会病理学を選び、研究した。
短大に福祉、深草からの船出
60年春、京都市伏見区にあった米軍駐留地跡に、深草学舎(キャンパス)が誕生した。翌61年、経済学部経済学科を開設し、62年春、短期大学部に社会福祉科を設けた。
今に通じる「福祉の学び舎」の開門である。

深草キャンパスの学舎
だが、専任教員は、後に短期大学部長となる杉本一義(1931~2019)のみ。杉本は当時、福祉施設で70人のこどもたちと寝食をともにしていた。一方で、米国の社会福祉などを研究しており、その活動に白羽の矢が立って招かれた。
社会福祉科で杉本が見たのは、受験者の定員割れ。初年度(1962年度)、入学定員40人に対して、受験者は二十数人だった。
杉本は、なんの資格も取れないことが定員割れの原因とみて、保育士資格を取得できる国の認可を得ようと決意。東京に出張して、厚生省(現厚生労働省)に4回、文部省(現文部科学省)に2回足を運び、ようやく内諾を得る。2年間の苦労が実って、開講4年目の65(昭和40)年度から、保育士資格の取得が認められた。
エレベーターでの懇願
その時の話が、語り継がれている。
厚生省4階のエレベーター前。杉本は、専門官が姿を見せるのを待っていた。出てきた。駆け寄り、必死の思いで言った。
「エレベーターの時間をください」
1階に降りるエレベーターの中、杉本は保育士の人材養成などの意義を伝えた。懇願である。
杉本は、のちにこう寄稿した。
<内諾を得て帰ってみると、大学では(社会福祉科の入試の)中止を決定していた。帰宅していた短期大学部長の自宅を予約なしで訪ねて内諾の経緯を報告、招集された評議会での議論の末、2票差で可決された>(2000年発行の『短期大学部50年史』)
その後、社会福祉科の受験生は急増。定員40人に対し、800人を超えることもあった。最初の2年は、杉本の研究室もなかったが、64年に大宮キャンパス(京都市下京区)の北黌(ほっこう)101教室が、研究室に充てられた。
大学にも福祉、孝橋教授も
社会福祉科の科目は、社会事業概論や児童福祉論、精神衛生など多岐にわたり、担当したのは、文学部の教員や他大学の教員らだった。
その中に、大阪社会事業短期大学の孝橋正一(こうはししょういち)(1912~99)がいた。戦後の社会福祉理論を牽引した、泰斗の一人だ。
68年春、文学部に社会学科が開設されて社会学と社会福祉学の専攻が設けられた。短期大学部に遅れること6年、大学にも「福祉」の名のついた専攻課程ができた。
この時、孝橋は教授として招聘へいされ、大阪社会事業短期大学から移籍する。
孝橋の在籍期間は5年ほどだったが、学会に大きな足跡を残した。
元副学長の長上深雪(おさかみみゆきさん)(名誉教授)は、こう言った。
「孝橋さんは、社会学科開設当時の主任教授。社会事業概論を担当していた。この時の政策論を中心とした議論が、本学の伝統になった」
孝橋は、33歳年上の大先輩である海野との面識はない。だが、「学問としての社会福祉」にこだわる姿勢は、共通していた。
「2人によって、龍谷大学社会福祉の基盤と伝統が確たるものになった」
長上さんは、こう話した。
瀬田キャンパス誕生
文学部に社会福祉学専攻が開設されてから21年後の1989(平成元)年、新たなキャンパスができた。大津市の瀬田キャンパスだ。
ここは理工学部がメインの学部として計画されたが、創立350年のキャッチフレーズが「人間・科学・宗教」だったこともあり、社会科学を融合させようと、社会学部が新設され、文学部の社会学科と社会福祉学科が社会学部に移った。

瀬田キャンパス
2年前の87年に、社会福祉士及び介護福祉士法が公布され、全国の福祉系大学や短大、専門学校のカリキュラムが次々と改訂されている、激動の時代。「龍大福祉」は、瀬田の大学福祉(社会学部)、深草の短大福祉の「京滋の両輪」で走ることになった。
琵琶湖の広がる滋賀は、「社会福祉の父」ともいわれた糸賀一雄(1914~68)を生んだ、福祉先進県。その近江の国に、福祉の学びの拠点を持った意味は大きく、第一線で活躍する人材が、次々と湖国に輩出されることになる。
異彩放つ矯正・保護課程
瀬田キャンパスができるまでに、特筆されることがあった。77年に、日本唯一の刑事政策に特化した教育プログラムとして、特別研修講座「矯正課程」(95年に「矯正・保護課程」に改称)ができたことだ。
西本願寺の教誨活動を背景に監獄法などが講義科目に含まれた明治以降、龍大では、犯罪者らを救うことがテーマの一つであり続けた。
2002(平成14)年には、研究機関として「矯正・保護研究センター」を設置。10年には、「教育」「研究」の2分野に加えて、「社会貢献」を行う「矯正・保護総合センター」が設立され、一般市民にも教育の機会の提供がスタートした。
こうした活動にも、社会福祉の理念に通じる「だれひとり取り残さずに救う」(摂取不捨)という「阿弥陀仏の誓願」が生きている。
(関西支局・飯塚隆志)

