農のある風景から〈コラム一草一味〉

2025年1206 福祉新聞編集部

蟻塚昌克 学校法人敬心学園 参与

障害福祉の領域で農福連携が進んでいる。直近の連携主体は8000を超え、農林水産省の推進ビジョンでは、2030年度に1万2000が見込まれている。就労支援を目的に、ハウス栽培などの労働集約的な作業が多いのが特徴だ。

もっとも歴史を眺めると農業と社会福祉の間には、いま以上に深いつながりがあり、連携よりも、むしろ農福一体が多かったことが分かる。第二次世界大戦前には民間施設への公金注入がなかったため、田畑を耕し、家畜を育てて食を賄った施設も珍しくなかった。その一角に登場するのが、社会の無知ゆえに理不尽な扱いをされたハンセン病や結核患者らに寄り添い、日本の社会福祉の礎を築いた人びとだ。

1928年。鈴木修学は、26歳で日蓮宗に帰依して福岡の生いきの松原にあるハンセン病療養所の運営を任せられ、貧しい患者の世話と資金繰りに明け暮れる。次いで愛知県知多郡に転じて感化救済事業に当たっている。訳あって非行に走った少年保護の仕事だ。少年たちと一町五反歩の田畑に加え、新たに五十町歩の山林を開墾し、取れた米は名古屋市内の生活困窮世帯にも配られたという。この時の経験が、第二次世界大戦後に日本福祉大学を創立する鈴木の原動力となっていく。

36年。キリスト教に入信した長谷川保や山形春人、大野篁二こうじら若者が静岡県の浜松で貧困にあえぐ結核患者の生活施設づくりを試みるものの、住民の強い反対に遭い頓挫する。打開策として三方原台地の原野の払い下げを受けて患者と共に切り開き、試練の末に住と糧を得るための拠点開設にこぎつけている。保健医療、社会福祉、教育事業経営のコングロマリットともいうべき、社会福祉法人聖隷福祉事業団を核にした一大グループの歴史の起点となる聖隷保養農園の立ち上げだ。

粗末な一つ屋根の下で寝食を共にしながら、そこではどんなことが交わされていたのだろうか。前例がない、資金がない、制度がない時代に夢を語り合い、互いに励まし合って希望を共有したのだろう。ただただ額に汗して働く姿は、ミレーの絵画「種まく人」「落穂拾い」などで知られる19世紀フランス・バルビゾン派の農のある風景を連想させる。

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