【大正大・上】仏教3宗4派が連合し開校
2026年02月24日 福祉新聞編集部
大正大学は1926(大正15)年に日本唯一の仏教連合大学として開校した。「大学令」発令から7年後だった。3年前には関東大震災、26年には大正天皇が崩御され、元号が昭和と改元されるという激動の時代であった。
智恵と慈悲の実践
仏教連合大学構想(設立私案・渡辺海旭(かいぎょく))にはさまざまな仏教宗派が強い関心を持ってはいても、最終的に天台宗(天台宗大学)、真言宗豊山(ぶさん)派(豊山大学)、浄土宗(宗教大学)、のちに真言宗智山(ちさん)派も加わる3宗4派によって仏教思想を建学の理念に、智恵と慈悲の実践を掲げ、中山道(現国道17号線)沿いの東京府北豊島郡西巣鴨字庚申塚(現豊島区西巣鴨)に産声を上げた(『大正大学五十年略史』)。
初代学長に文部省(現文部科学省)から推薦され就任したのは澤柳政太郎博士(1865~1927)である。ところで連合して設立したのには、当時の仏教界の事情があった。各宗派とも単独では財政的にも教育内容の上からも、「大学令」に沿った大学設置は困難であった。そんな中、仏教界の長老であった高楠(たかくす)順次郎(武蔵野女子学院創設者)、姉崎正治(まさはる)、前田慧雲(えうん)、村上専精(せんしょう)、そして澤柳政太郎の5人は、1919(大正8)年各宗派管長宛てに仏教連合大学の創設を提唱した。当初の動きは鈍かったが、かつてのように学問の世界で僧侶が社会の先導的な存在か、という危機感から、教育事業は宗派を超えて協議して進めなければならないという機運が生まれた。その後、紆余曲折がありながら開校へ。
その大学の使命について澤柳は「どうか大正大学は看板を書き換えただけの大学ではなく、真の大学であって欲しい。又、宗教大学であり、仏教大学である実質を具備したものであって欲しい。(中略)即ち宗教的敬虔の精神が学内に充ち満ちて居て、此処に学ぶものに霊感を与える大学であって欲しい」と語っている(『吾父澤柳政太郎』澤柳礼次郎著)。
なお、92年後の2018(平成30)年には時宗が新たに運営に参画した。

澤柳政太郎初代学長
貧富の差が拡大
ところで、社会福祉学科のルーツは、大正大学の前身・宗教大学に1917年設置された社会事業研究室(以下、研究室)。当時の国際情勢は第1次世界大戦(1914~18)が欧州を主戦場とした人類史上初の世界大戦のさなか。一方、国内では軍事救護法の公布(1917年)や内務省地方局に救護課が置かれ、民生委員制度の先駆けとなる岡山県済世顧問が導入された。また独占資本の出現から貧富の差は拡大し、生活困窮と米価の高騰による富山県各地の女性らの米騒動(1918年)や労働争議が急増したうえ、スペイン風邪のパンデミックにも苛まれた。
研究室を先導した渡辺海旭(1872~1933)は浄土宗の派遣による10年余りにわたるドイツ留学より帰国(1911年)後、すぐにセツルメントの「浄土宗労働共済会」を設立。翌年設立の「仏教徒社会事業研究会」を通して長谷川良信(りょうしん)(1890~1966)はじめ多くの後継者を育成した。
宗教大学の望月信亨(しんこう)学長(大正大学第3代学長・1869~1948)はじめ、椎尾弁匡(べんきょう)(1876~1971)と渡辺が顧問に、長谷川良信が理事となって研究室は開室された。

モダンな旧校舎を背景にした椎尾弁匡第6、9、14代学長像
初の社会事業研究室
その準備には矢吹慶輝(けいき)(1879~1939)が姉崎正治に同行した米国より1917(大正6)年1月に帰国したあと加わり、主任教授となって「社会事業」を冠する日本初の研究室を創設、命名した。翌年5月には内務・文部両大臣を招いて先進的な欧米諸国の専門書や資料および先駆的な団体、施設の実績資料を展示した「宗教大学社会事業研究室開室記念展覧会」を開催した。

開校当時の大正大学
校内に入ると校友会が中心となって建立した胸像(寿像)に出合う。第6、9、14代と学長に就き、その都度問題を解決して〝中興の祖〟とされ、研究室も創った椎尾弁匡その人である。
(高野進)
大正大学メモ
学校法人本部、巣鴨キャンパス(東京都豊島区)=社会共生(公共政策学科、社会福祉学科)、地域創生、表現、心理社会、文、仏教の6学部10学科がある。学生数約5000人。建学の理念は「智恵と慈悲の実践」。
教育ビジョンとして「慈悲・自灯明・中道・共生」の「4つの人となる」を掲げている。
学長=高橋秀裕
付属研究所=綜合仏教研究所、カウンセリング研究所、エンロールメントマネジメント研究所、地域構想研究所
運営主体は学校法人大正大学

