【序章・下】社会福祉の始まり・専門職の育成急務に~日社大と中央福祉学院が担う~
2025年08月05日 福祉新聞編集部
日本社会事業学校の開校
戦後日本の社会福祉事業は、GHQ(連合国軍最高司令部)の3原則(1)無差別平等(2)国家責任(3)必要充足-をもとに進められた。
この考え方は、1946(昭和21)年11月に公示された日本国憲法第25条にも反映された。GHQは3原則の実現を制度の上で求めるにとどまらず、それに基づく公的扶助制度を、一定の訓練を受けた専門的職員によって運営することを政府に強く求めてきた。
政府は戦前、道府県に社会事業主事・同主事補を配置した経験はあったが、専門的職員による社会事業の運営経験がなく、そうした発想もなかった。しかし、GHQの強い要請で46年8月、社会事業専門学校設立準備委員会が厚生省社会局に設置された。同10月7日、第2回設立準備委員会が開かれ、経営母体は(財)中央社会事業協会(現全国社会福祉協議会)とする。また履修期間1年の研究科と公私社会事業従事者と民生委員の再教育のための講習科の2科にすることが決まった。GHQによる要請で開校を急いだ結果、その他の私立学校とすることになり日本社会事業学校(葛西嘉資校長)が、同胞援護会の牛込原町の建物で11月11日に開校した。研究科には52人が入学した。次いで47年3月に(旧制)日本社会事業専門学校の設立が認可された。施設組織である日本社会事業連盟との合併により名称が変わった(財)日本社会事業協会(現全社協)が運営にあたった。
学校法人の運営に
学制が新制に切り替わり、50(昭和25)年3月に日本社会事業専門学校は、日本社会事業短期大学となる。翌年3月、日本社会事業短期大学は(財)日本社会事業協会から独立した学校法人日本社会事業学校の運営するところとなった。58(昭和33)年4月、日本社会事業短期大学は4年制の日本社会事業大学に昇格し、運営主体の名称は、62(昭和37)年に学校法人日本社会事業学校から学校法人日本社会事業大学に変更された。
日社大に職員研修一元化
昭和20年代政府は、生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法を矢継ぎ早に制定したが、その運営要員の養成は大きな課題となった。
50年5月、厚生省は社会福祉主事の設置に関する法令を制定し、6月に日本社会事業協会を養成機関として指定した。
日本社会事業協会は、厚生省が管理していた旧金鶏学院に「社会事業研修所」を設置。6月15日から2カ月かけて 民間社会福祉従事者、公務員を対象とした第1回社会福祉主事資格認定講習会を開催した。修了者は47人であった。
また、厚生省は51年6月に学校法人日本社会事業学校に対し、新たに「社会福祉事業職員研修所」の運営を委託し年4回、1回につき地方公務員100人を対象にして社会福祉従事者の養成を行った。この研修所も旧金鶏学院に置かれた。
なお、日本社会事業協会は51年1月に全日本民生委員連盟、同胞援護会と合併し、4月に(財)中央社会福祉協議会となる。52年6月、社会福祉事業法が施行されたことを機会に(社福)全国社会福祉協議会連合会に名称変更。55(昭和30)年4月には定款を変更して(社福)全国社会福祉協議会となった。
59(昭和34)年に全社協の社会事業研修所は廃止され、60年から日本社会事業学校の社会福祉事業職員研修所に一元化され公務員、民間社会福祉職員の養成を担うこととなった。

社会事業研修所として使われた旧金鶏学院
職員研修再び全社協へ
そして中央福祉学院に
昭和40年代に至ると、社会福祉をめぐる状況が大きく変化するなかで、75(昭和50)年に日本社会事業大学から社会福祉事業職員研修所が全国社会福祉協議会に移管され、社会福祉研修センターと名称を変えた。さらに93(平成5)年に同センターは霞が関から神奈川県葉山町に移転し、中央福祉学院(ロフォス湘南)に発展することとなる。
一方、戦後の学制改革によって出直しを図ることになった各大学は、社会の変化と人々のニーズに応える社会福祉を担う人材の育成を進めてきた。次回からは各大学の福祉関係学部の姿を紹介する。
〈参考文献〉
・全国社会福祉協議会九十年 通史
・黒木利克現代社会福祉事 業の展開