【序章・上】社会局発足・社会事業主事講習始まる~大学でも救済の研究に着手~
2025年08月05日 福祉新聞編集部
今や、社会福祉施設は66種類、総数は12万ともいわれている。福祉の土俵は大きくなり、そこに働く職員数は240万人で医療従事者の400万人に迫る。社会事業が始まった昭和初期、恐慌による社会不安を背景に救護法(昭和7年)、社会事業法(同13年)が施行された。当時の施設は養老院・救護施設、孤児院、病院の3種類しかなかった。従事者は約1万人とされている。それが100年を経て約200倍に増加することとなった。「福祉の学び舎や」の連載は、どのような状況下で官民の社会事業従事者教育が始められたのか。それがどう現在に受け継がれてきたか。福祉系大学の歴史を通して次の時代をどう展望しているかなども含め明らかにする。
大正デモクラシー
今年は、1920(大正9)年に内務省社会局が発足して100年の節目を超え101年。局発足に先立って19年8月に地方局救護課が社会課に変わった。それまで禁句となっていた「社会」が内務省の課の名称となったのである。大正デモクラシーの影響のもとに「社会事業」が生まれた。ちなみに08(明治41)年に発足した中央慈善協会(現全国社会福祉協議会)は、21(大正10)年に社会事業協会に、24(大正13)年には財団法人中央社会事業協会に改称している。
官吏教育が緊急課題
道府県もこの動きを敏感に受け止め、社会課を順次設けることになった。そのことは、社会事業の専門職員の養成を緊急課題として浮上させた。
内務省は、19(大正8)年、国立感化院に感化救済事業職員養成所(第5回45人の卒業生を出したのを最後に、財政事情を理由に閉鎖)を設立させ、民間でも築地本願寺に社会事業講習会が開かれ、財団法人協調会(労使協調を目指す半官半民組織)には、社会政策講習所が設立された。
それでも大正期には、全国の困窮者の救済に従事する方面委員1万5000人が推計されたに過ぎない。東京、大阪などは社会事業職員数百人を擁していたが、多くの県では2~3人しか配置されていなかった。昭和に入っても地域の社会事業の活動は方面委員の手に委ねられていた。
地方に社会事業主事配置
この実態を踏まえ政府は、25(大正14)年12月に地方社会事業職員制度を制定し、道府県費による奏任官待遇(高等官)の社会事業主事61人以内、判任官待遇(官吏)の主事補253人以内を置く事を定めた。28(昭和3)年の実数は、主事32人、主事補158人であった。
引き続いて内務省は中央社会事業協会(現全社協)に社会事業研究生制度を設ける。これは社会事業主事(奏任官)の養成を目的としたもので28年から大学、専門学校卒業者を対象とする1年間の教育を開始した。
社会事業研究生の出願資格は、大学または専門学校を卒業している者で、養成期間は1年間。手当が月額30円~40円支給された。28年から42(昭和17)年まで続いた。修了生は、各道府県の社会課、社会事業協会に配属され、社会事業の第一線で働いた。研究生の中の数人は、戦後、県知事に選出された。
また、中央社会事業協会は25(大正14)年2月、東京府芝区の東京親隣館大ホールで第1回社会事業講習会を開催した。1年以上社会事業に従事した者、師範学校、中学校、高等女学校を卒業した者または同等以上の学力を有する者、その他官公庁または公益団体が推薦した者を資格要件に講習会を行った。期間は100日間、正科講義300時間、課外講義28時間の内容であった。受講者は定員50人に対し72人(男子58人、女子14人)にのぼった。第2回講習会は社会事業中央講習会と名称を改め34(昭和9)年2月に東京府深川区の猿江善隣館で開催された。講習の構成は、一般社会事業科(救護、方面事業)と児童保護事業科(保育、育児)に分けそれぞれ88時間、86時間を専門科目として割り当てた。修了者は両科で64人であった。第3回社会事業中央講習会は35(昭和10)年4月に明治神宮外苑の日本青年館で開催された。この講習会の目的は社会事業行政実務に携っている者に社会事業の知識を与え訓練することであった。修了者は31人であった。これらは判任官の養成を想定したもので講習料は自己負担で10円となっている。この動きは地方にも広がり27(昭和2)年8月に岩手県との共催で、第1回東北地方社会事業講習会が開催され270人の参加があった。以降九州地方、東北地方で同様の講習会が開催された。

研究生の研修が行われた昭和16年ごろの社会事業会館。丹下健三が設計を担当したが、戦災で焼失
各大学に社会事業科
これに先立って17(大正6)年、宗教大学(現大正大学)には社会事業研究室が設置され、21年には社会事業科に改めた。東洋大学では19年に感化救済科を開設。21年には専門部社会事業科に改めた。日本大学、日蓮宗大学(現立正大学)、日本女子大学校、関東学院、明治学院その他にも社会事業科が設けられた。東本願寺(京都)には社会事業講義所が設けられた。これらは32(昭和7)年から翌年にかけて東洋大学、日本女子大学校、関東学院は社会事業科を廃止するに至った。戦時体制への移行が始まり、社会事業は「国民厚生事業」に変貌することになる。