【大阪公立大 4】社短大、夕陽丘の実践
2026年04月21日 福祉新聞編集部
大阪市立大が開学した1949(昭和24)年春、工業や農業など七つの専門学校を母体とした浪速大が生まれた。そして、55(昭和30)年9月1日、浪速大が改称されて大阪府立大が誕生した。
ただ、この時点で府大に「福祉」にかかわる専門領域はなかった。
「府大福祉」のルーツは、81(昭和56)年に合併した府立大阪社会事業短期大(社短大)の前身、大阪社会事業学校にまでさかのぼる。
GHQ女史の筋書き
大阪社会事業学校は48年10月に、南区田島町(現・中央区谷町)に創設された。終戦の翌年秋に東京・牛込に設置された日本社会事業学校(現・日本社会事業大学)に続く、GHQ(連合国軍総司令部)の政策に基づく設置だった。
50年に東西とも短大となり、大阪社短大が誕生する。初代学長は四宮恭二。大阪社会事業学校の校長からの続投で、校長時代の「とんでもない話」として、次の一文を残している。
<東京から来たGHQの軍政官、ブルーガー女史は、大阪大の学長室に私を呼んで言った。「あなたの大阪社会事業学校は本来、大学院であるべきコースだ。阪大の大学院にしてはどうか」>(社短大創立30周年記念誌、要旨)
専門学校が、いきなり大学院になるという話である。阪大の学長も、四宮も「ありえない」と思いながらも、苦笑するしかなかった。
だが、社短大はその後、40年の時を経て大学院を持つ府大社会福祉学部に発展していく。その経緯からみると女史の筋書きは、あながち的外れではなかったことになる。
事実、社短大は高度成長期、「社会事業の学びのメッカ」と呼ばれ、入試の競争率は10~20倍になった。昼の専攻科には社会人も多く入学し、英語の原書講義があったほどの高いレベルだった。
52(昭和27)年4月に大阪府立保母学院を統合し、社会事業保育課程(定員30人)を設置していたことから、府下、市域の保育士は、ほとんど社短大の卒業生という時代も現出させた。
全国区の社会事業家輩出
大阪城近くの森之宮に移っていた社短大は、59年8月、天王寺区夕陽丘町の夕陽丘学舎に移転した。
55年春、修業1年の夜間課程が設けられた。「社会事業選科」だ。現任職員の研修が目的で、講義は講堂で行われた。受講者は100人ぐらい。
夜間課程の修了者は、社短大が府大と合併するまでの26年間で約1500人。この夜学の修了生と前身の大阪社会事業学校、そして社短大の卒業生からは、多くの民間福祉のリーダーが育っている。
大阪自彊館の吉村靫生、聖徳会の岩田克夫、八尾隣保館の坂江靖弘……いずれも全国をリードした社会事業家だ。
大阪府社会福祉協議会の事務局長として活躍した井上光も阪大を出た後、社短大で学んでいる。

吉村靫生

岩田克夫

坂江靖弘

井上光
下層社会と学生セツルメント
右田紀久恵が、市大から社短大に赴任したのは62(昭和37)年春。「孝橋理論」で知られる孝橋正一(1912~99)の「社会事業概論」を受ける形で、生活保
護論、児童保護論など6科目を任された。
「今で言うと、(孝橋先生は)田原総一朗のような人。譲りはらへん。マルクス知らずして、福祉を語るな、と……」。
夕陽丘学舎は、「名護町」や「釜ケ崎」に隣接していた。横山源之助(1871~1915)の著書「日本之下層社会」に登場する地域だ。愛染橋セツルメント(浪速区日東町)が、教室・研究室の窓から手に取るように見えた。
学生もセツルメントに参加していた。子ども会を担当し、補習にはじまり、紙芝居や七夕まつり、クリスマス会などの行事を行った。
日常的に大八車にゴミを載せて帰ってくる廃品回収業の住民を目の前で見ながら、学生たちは下校した。
地域の現実を日々身近に学ぶことのできる環境を通して、生活困窮者の「権利的視点」が自然に形成されていった。
「岡村学長」実現、府大と合併
右田は69(昭和44)年8月、大阪府大学公費海外研究員としてロンドン大学LSEの客員研究員として赴いた。
そこで公刊されたばかりの「シーボーム報告」と出合う。福祉サービス利用者を主体とし、自治体サービスの統合化と地域性重視からの改革提案である。
幾度となく渡英して研究を重ねるが、社短大で4年制大学への動きが本格化。「4年制大学になるためには、『岡村重夫学長』を実現するしかない」との声が大勢を占め、岡村の信頼が厚かった右田は75(昭和50)年春、帰国。当時、岡村がいた佛教大学との交渉を乗り切り、岡村も説得して77年4月1日、ついに「岡村学長」が実現した。
それから4年後の81年4月、社短大は府大と合併した。国公立大学としては初の「社会福祉学部」の誕生だった。
社会福祉法人近代化
社短大から府大へ。教員は「日本のアカデミア(研究機関)の役割」も果たした。 社短大の専任講師から府大社会福祉学部の助教授になった小室豊允(1942~2013)も、その一人だ。

小室豊允
建物、労務、人事の近代化を3本柱にして、1960年代から府社協で勉強会が始まった。そこから80年代になって、施設経営を学ぶ「小室ゼミ」が生まれた。
小室は当時、「福祉施設は旧態依然としている。措置制度に問題がある」と説いていた。
<若い学者である私の提言を(法人経営者らは)受け入れてくれた……徐々に全国でも認められるようになり……巨星たちが大阪を越えて日本の社会福祉界のリーダーになられた>(小室著「井上光と戦後大阪の社会福祉」)
巨星は、先の吉村や岩田、坂江、井上。それに続く、高岡國士(成光苑理事長)、福永亮碩(若福会理事長)らである。

