【大阪公立大 2】大大阪時代 公が推進力に
2026年04月21日 福祉新聞編集部
民生委員児童委員につながる「方面委員制度」は、大阪府知事と知事顧問の「林市蔵―小河滋次郎」の強い絆で生まれた。
もう一つの縁に触れる。第6代市長の池上四郎(1857~1929)と第7代市長の関一(1873~1935)。「池上―関の市政」は、「林―小河の府政」と響き合いながら、昭和に向かう。

池上四郎
救済事業を担った警察
<大阪市の福祉路線を敷いた人……>
後世、こう言われた池上が市長に就いたのは、1913(大正2)年10月。13年間、府警察部長(現在の府警本部長)を務めたあとの56歳での転身だった。池上の警察時代の仕事ぶりを見ていた小河は、東京の新聞に寄稿して、<大阪の救済事業の特色は、警察方面の熱心>と書いた。

関 一
具体例として、武田慎治郎が設立した感化院の修徳館、天野時三郎が尽力した徳風小学校と有隣小学校、中村三徳の大阪自彊館を挙げた。
天野を見る。難波署長の時に「管内に貧児が多い。教育も受けずに不良化していってしまう」と憂えて、貧児対象の夜間学校の開校を決意。実業家に有隣小と徳風小の創設を説き開校した。11(明治44)年6月と7月のことである。
社会調査で「防貧事業」も
池上は、武田、天野、中村の警官3人を支えつつ、市長に就任。14年9月、東京高等商業学校(一橋大の前身)の教授を務めていた関を、助役に迎えた。さらに翌15年8月には、天野を市衛生課長に呼んだ。天野は、3年後に新設部署の大阪市救済課の課長を兼ね、20(大正9)年4月には、続いて新設された社会部の初代部長を務めた。
労働、社会調査を徹底的に実践。科学的根拠に基づいて、市営住宅、産院、浴場などの防貧的な社会事業を展開した。貧困の原因を「個人」ではなく、「社会の責任」と見る視座がすでにあった。
池上の一連の福祉施策や理念は、関東大震災(23年)後となる東京の施策より十数年早かった。
<大阪は近代的社会事業の開祖>(『大阪における社会福祉の歴史3.』西野孝)と書かれるゆえんである。
公営初のセツルメント
ひときわ光るのが、21(大正10)年6月に、天神橋六丁目(天六)にオープンした大阪北市民館だった。
辺りは「天満焼け」と呼ばれる09(明治42)年7月末の大火災で、スラムになっていた。そこに突然、地上4階地下1階の立派な洋風建築が現れた。だれもが目を見張った。
原資は、米騒動の時の、米の廉売資金(寄付金)の剰余金だった。実は、剰余金は府と市が折半した。府は方面委員の事業に、市は北市民館の建設に当てた。
当時、林は54歳、池上は64歳。10歳違いの知事と市長が、どんな話をしたのか。方面委員制度と公営初の隣保事業(セツルメント)を実現させたのだから一石二鳥、値千金の判断ではあった。
さて、初代館長は志賀志那人(1892~1938)。熊本・阿蘇の出身だ。東京帝大で社会学を学び、大阪基督教青年会主事の時に、市の救済課長だった天野に呼ばれ、池上市長直属の社会労働調査係(嘱託)になった。

志賀志那人
風呂屋社会事業
志賀も調査を大事にした。手腕が評価されて、28歳の若さで館長に就任。相談事業や図書の貸し出しを行い、町内会、クラブ活動などを支援した。また、保育や授産講習、信用組合などもつくった。
「市民の声こそ、指針になる」。銭湯に通った。湯船につかって雑談した。その声を事業に生かした。周囲は「風呂屋社会事業」と呼んだ。
志賀は言った。
「社会事業の実践は、山を削って谷を埋めるのではない。谷にどう働き掛けて、谷がどう力をつけて、自力で隆起できるかを、目指すことだ」
大阪の民営セツルメントとしては、岡山孤児院の創設者、石井十次(1865~1914)につながる石井記念愛染園が、「天満焼け」後の10年代から始めた愛染橋セツルメントなどがあった。
北市民館は、その後の公営、民営のセツルメントの隆盛に寄与した。
世界6位の「大大阪市」に
「大阪の父」と呼ばれる、関の歩みを見る。助役だった23(大正12)年9月1日昼に、関東大震災が起きた。池上と連携して、いちはやく大阪港から救援物資を送った。
3カ月後の11月30日に、第7代市長に就任。御堂筋を大阪のメインストリートにする就任以前からの案を、正夢にした。大阪港や地下鉄を建設、大阪城天守閣も再建し、「大大阪時代」の絶頂期を築いた。
大阪市は、大正中期から昭和初期にかけて、人口、面積、工業出荷額において日本1位となり、人口も当時の東京市を上回って世界第6位(約211万人)になっていた。
「大大阪時代」は、そんな隆盛を捉えてのネーミングだった。
それは、池上と関の市長在任期間を合わせた「1913~35年」に、すっぽり入る。
全国初の「市立大」誕生
関は、留学時代に知ったドイツ初の商科大「ケルン大」と同じような「実学の府」を創る夢を持っていた。
原敬(1856~1921)内閣の時に、大学令と高等学校令が発令され、公立大と私立大の設置が認められた。ただ、「市立」は入っていなかった。
「都市生活には、必ずや不健全なる社会状態が発生する。どうしても神聖なる学問の中心が必要である」
関はこう言って、文部省(当時)と交渉して大学令の改正にこぎつけ、「市立」も認められた。
28(昭和3)年、大阪市立大の母体となる、大阪商科大が誕生した。
「国立大学のコピーであってはならぬ」。関の「実学」への決意である。
キャンパスは、大阪市住吉区杉本町に造られた。開学から6年後、モダニズム建築の学舎群ができる。
時計台のある本館は、国の有形文化財に登録され、今も大阪公立大と市大の1号館として使われている。

