【日本女子大・上】「女子を人として教育する」
2026年02月24日 福祉新聞編集部
第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること。
100年以上も昔の明治時代は、「女子に教育は不要」とされていたが、日本女子大創設者の成瀬仁蔵(じんぞう)(1858~1919)は女子高等教育機関の設立を目指して1896(明治29)年に著書『女子教育』を出版、こう記した。
成瀬が女子高等教育に乗り出した背景には、少年期の生い立ちとキリスト教との出会いが関係する。長州藩主の一族である吉敷毛利家の祐筆(ゆうひつ)を務める士族の長男として生まれた。7歳で母と死別。維新によって禄を失った父の塾を手伝うが、16歳の時に父と弟も亡くす過酷な経験をしながら山口県の教員養成所に学び、小学校長などを勤めていた。

成瀬仁蔵
キリスト教と出会う
折しもキリスト教の宣教師となっていた同郷の先輩、澤山保羅(ぽうろ)(1852~87)と出会い、信仰に目覚め、故郷を出た。澤山が所属する大阪浪花教会(現日本基督教団浪花教会)で受洗。梅花女学校(現梅花女子大学)の主任教師になり、その後、布教のために新潟に赴任、新潟第一基督教会を設立、初代牧師として、女学校などの開設に関わった。もう一つの契機は、同志社英学校を卒業、東京帝大で哲学も学んだ麻生正蔵(しょうぞう)(1864~1949)と新潟時代に学校開設の仕事で出会ったこと。女子の高等教育をめぐり成瀬と麻生は、意気投合し交流を深めた。
この時期、近代化を急ぐ明治政府は文部省を設置、学制を発布し、1872年には官立東京女学校(現お茶の水女子大付属中学・高校)の開設など女子教育振興策を打ち出し、2年後には私立の青山学院などの創立が相次いだ。
女子教育への関心が強かった成瀬は、自らの教育と神学研究を深めるため1890年、アメリカに留学。ボストンの神学校などでセツルメントの思想も学び、4年後に帰国。請われて梅花女学校の校長に就き、麻生とも相談しながら本格的な女子高等教育機関の設立を構想し、『女子教育』を出版した。当初、成瀬の呼び掛けに応ずる人は少なく資金にも苦しんだ。
広岡浅子が援助
そんな折、成瀬が校長をしている梅花女学校で学んだ娘たちの父親で奈良県の山林王・土倉庄三郎が成瀬の構想を知り、動いたことが転機に。知り合いの女性実業家・広岡浅子に手紙で成瀬との面会を依頼した。多忙な浅子は、成瀬に会い、著書『女子教育』を受け取ると九州出張に。その往路、浅子は汽車の中で著書を読んで感動した。
実家は豪商の三井家。幼いころに裁縫、生け花など稽古ごとよりも四書五経に興味を持ったが、女だからと読書を禁じられたことも。大阪の豪商・加島屋(後の大同生命)に嫁入りした後、事業に必要な簿記や算術を独学で習得した経験から、男女の不平等に疑問を抱いていただけに、成瀬への助力は金銭の寄付にとどまらず、政財界の有力者への働き掛けにまで及んだ。
東京にも強力な支援者が現れた。近代日本経済の父であり、孤児や困窮する老人たちを受け入れていた東京市営養育院事務長(後に院長)で中央慈善協会(現全国社会福祉協議会)会長になる渋沢栄一だ。すでに多くの事業を手掛け、成瀬の女子高等教育に対する考えを理解すると、支援を約束、創立委員となり、会計監督に就任した。
学校を東京にするか、大阪にするか、用地の選定や資金の確保も難題だったが、広岡浅子の実家・三井家が東京・目白台に持っていた土地の寄贈で解決。開学の準備は進み1901(明治34)年に開校した。校名は「日本女子大学校」。専門学校令による認可は04年。開校当時は3年制(17年から修業年限4年)、家政学部、国文学部、英文学部の3学部でスタートした。
卒業の前年のこと。学生の中から、3年間の修学のみに終わることなく母校との連携を保ち活動したい、との要望が出され、卒業生組織として「桜楓(おうふう)会」が設立された。会長は成瀬がなり、会の組織、活動の構想を「桜楓樹」として表現。日本女子大学校・社会・世界潮流・会員の同情・会員の研究を根とし、桜楓会本部を大幹とし、家庭部を中心の幹、教育部・社会部の大枝を左右にもち、これらの枝からさらに小枝が伸び、そこに進歩・文化・家庭改良・模範教育・救済など数多くの実がなって樹が育っていくという理想図である。会の名称は〝桜花楓葉〟の美しさにちなむ。
託児所を開設
04年、第1回生121人が巣立ち、同時に桜楓会が発足。卒業生たちは、それぞれ家庭・教育・社会部に分かれ、テーマを決め研究に、事業に着手。会員同士の連絡を取るために機関紙「家庭週報」を創刊した。図書館などの充実のためのバザーを催し、社会活動として低所得者向けの託児所を開設した。
託児所の開設・運営に奮闘したのが丸山ちよ(1887~1967)。後にできた教育学部を09年に卒業後、病気のために山形県米沢に帰郷するが、桜楓会の要請で1913年から「桜楓会託児所」(文京区小石川)の開設にあたる。最初の児童は20人。2年後に規模を拡大して「桜楓会巣鴨託児所」(豊島区南大塚)に改称・移転、受け入れ児童を80人に増やした。おやつや給食の提供、オルガンを購入するなど保育の質向上にも取り組んだ。

桜楓会が開いた託児所
昭和初期の大不況の最中、東京府が隣接地に公営の託児所を設置することになり、桜楓会はいったんは閉鎖方針を決めた。しかし、地元住民やセツルメントの学生らから運営の継続を求める声が出たため、託児所の資産を丸山に譲渡、個人経営による運営継続となった。託児所の名称は西窓学園と改称し、聴覚障害者のための「ろうあ婦人の家」なども併設した。丸山は戦争で故郷・米沢に疎開を余儀なくされるまで子どもたちのために奮闘した。西窓学園があった近くの児童公園では、顕彰碑が子どもたちを見守っている。
(若林平太)
日本女子大メモ
伝統ある家政学部と文学部、女子大学で唯一の理学部、日本で最初に開設された人間社会学部の4学部15学科、大学院には5研究科、18専攻の学びがある。創立者成瀬仁蔵が掲げた理念「自らの人格を高め、使命を見いだして前進する」のもと、女性が社会で力を発揮できる思考力と実践力を育む。学生数約6300人(大学学部のみ)
理事長=今市涼子 学長=篠原聡子。目白キャンパス(東京都文京区)。
2023年4月国際文化学部(仮称)、24年4月建築デザイン学部(仮称)設置構想中。

