継承される時代精神〈コラム一草一味〉
2025年06月14日 福祉新聞編集部
蟻塚昌克 学校法人敬心学園 参与
背中を押すという言葉がある。物事を決められず、迷っている人に最終的な決断を促して、励ますといった意味だ。
明治年代の社会福祉の歴史に登場する人物が、その道に踏み込んだ背景やきっかけを観察すると、偶然の出会いの中で先駆けが後進の背中を押すという事例がある。
1902年の春、内務省嘱託の留岡幸助が大阪商業会議所で講演をする。経済成長の谷間に貧しく取り残されたこども、老弱者救済事業の役割を説いた留岡は、最後に「大阪に第二の大塩平八郎出でよ」と檄を飛ばす。大塩は、江戸時代に大阪の貧困者救済のために兵を挙げた陽明学者。
会場に駆けつけた一人が、岩田民次郎。かねてより自らも貧窮生活を経験して貧老者の境遇に同情していた岩田は、この留岡の一言で慈善事業の道に入り、大阪養老院を立ち上げる。岩田33歳。
岩田の活動で特筆すべきは「養老新報」を発行して事業の意義を社会に伝えながら、慈善事業者の組織化を図り、全国慈善大会開催にこぎ着けたことだ。今日の全国社会福祉協議会の源流の一角に位置する活動となる。
この年の秋。津軽・弘前の薬種商だった佐々木五三郎は、東北冷害で親と別離した孤児が路頭に放置されている惨状に心を痛め、思い悩む。同時期に全国巡回に出た岡山孤児院の石井十次が弘前を訪れて、孤児救済の大義を演説。その場にいた佐々木は、石井の熱い話に引き込まれて強く同感し、決意し、やがて私財を差し出して孤児収容を開始する。同年11月、社会福祉法人弘前愛成園の起源となる東北育児院の出発だ。佐々木34歳。
石井の活動に触発された佐々木は、繁華街でこどもを引き連れ、人々の道義心に訴えて金品を集め、糊口をしのぐ。さらに移動映画の機材を入手した佐々木は、映画館を開いて慈善館と名付け、収入を施設運営に充てる。地域の寄付文化で支えられる独自の慈善事業の誕生といえる。
岩田と留岡、佐々木と石井のつながりを丹念にみると、明治の年代には慈善事業家に共通する時代精神とも言うべきものがあり、それが継承されて次世代に影響を与えていることがわかる。これらの学びは社会福祉の思想史に属し、関係者が大切にしたい領域である。