【佛教大・上】釈尊と法然「しあわせ」分かつ心
2026年03月31日 福祉新聞編集部
逢瀬の七夕(7月7日)。京都市北区の佛教大学・紫野キャンパス。左大文字の大北山(標高約200メートル)を西に望んで、一歩、キャンパスに入ると、法然上人(1133~1212)の銅像がたたずむ。
「佛教大学は、浄土宗が設立母体。宗祖、法然上人の心を心とする大学です」
学長応接室。昨春、第13代学長に就任した伊藤真宏教授(58)は、あいさつを交わしたあと、さらに続けた。
「建学の理念は仏教精神。本学における仏教精神とは、紀元前にインドで悟りを開かれた釈尊(ゴータマ・ブッダ)と、鎌倉時代に浄土宗を開かれた法然上人の共通の生き方考え方です。釈尊も法然上人も、自ら得られた悟りを貧富や身分に関係なく、人々に広められた。共通しているのは、しあわせを平等に分かち合う生き方です」

法然上人像。頭上に後光をいただき、蓮華を踏んでいる
明治元年「建学」
佛大には、「建学」と「開学」がある。
「建学」は、1868(明治元)年秋。京都・東山の浄土宗総本山知恩院の塔頭(たっちゅう)の一つ、源光院に仏教講究の機関が生まれた時を起点としている。
源光院は、「勧学場」と位置付けられる。
なぜ、「勧学」なのか。
背景には、明治新政府の神仏分離令による廃仏毀釈や、洋学の勃興による「仏教は空理を談ずるもの」などの揶揄への危機感があった。
知恩院第73世住職の名誉學天大僧正は、「『自廃の器』となった僧侶自らが立ち直る以外に道はない」と意を決して、「勧学の諭達」を出す。
<今こそ、学問の研鑽と人材の養成が急務である>
若い僧らは、一大警鐘と受け止めた。そして「勧学場」が生まれた。
かつて源光院のあった場所は、今の知恩院三門の石段付近だ。
伊藤学長を訪ねた3日前の7月4日昼。知恩院は、煙雨に霞んでいた。三門まで、坂道を歩いた。したたる緑を背景に、<佛教大学建学之地>と刻まれた記念碑が見えた。碑の裏に刻まれた<由来之記>には、こうつづられていた。
<佛教大学ノ建學ハ……源光院ニ開筵(えん)セル勧學場ヲ以テ淵源トス>
独立の気概で「開学」
「勧学場」に始まった学び舎の名称や教育内容、校地は、次々と変わった。
1898(明治31)年8月、大本山百万遍知恩寺(京都市左京区)へ移転した時は、私立浄土宗専門学院。専門学院は当時、帝国大学に相当する位置付けだった。そして、1901(明治34)年9月、洛東の如意ケ嶽(標高472メートル)山麓の鹿ケ谷(鹿渓(ろっけい))に移転した。
「開学」は、それから11年後の12(明治45)年5月。
その5年前に浄土宗門の学則が改正され、宗門の主たる学び舎は、東京・巣鴨の宗教大学と京都・鹿ケ谷の宗教大学分校になっていた。
当時、京都分校では宗教大からの独立が検討されていた。東京の宗務当局も国の動きを踏まえて議論を重ね、その中で東西の思惑が一致。12年春に分校を廃止して、文部省の専門学校令に基づく、私立高等学院となった。
この時を佛大の「開学」とした。そして巣鴨の宗教大は14年後に、大正大学となる。東の大正大、西の佛大の原型ができた時でもあった。
私立高等学院は7年後の19(大正8)年に、佛教専門学校となり、「佛専」の名で親しまれ、入学者が増えていく。校地が手狭となり、34(昭和9)年1月に、現在の紫野キャンパス(鷹陵(おうりょう))に新校舎を建てて移転した。
鹿渓から鷹陵へ。希望の旅立ちだったが、世界は大戦への道を進んでいた。
終戦……。焦土のなか、GHQ(連合国軍総司令部)の意向を背に受けながら、教育改革が始まる。47(昭和22)年3月、教育基本法と学校教育法が成立。4年制の新制大学が、設けられることになった。
「何もしなければ、佛専は廃止される」
消滅か、大学昇格か。宗門が揺れるなか、佛専に在籍する学生も心を痛めた。
若き日の水谷幸正(こうしょう)(1928~2014)もその一人。のちの佛大教授、事務局長、第6代学長である。
三重県・伊賀の出身。俳聖松尾芭蕉(1644~94)と同郷だ。
水谷は動いた。翌年5月、学生代表の仲間といっしょに上京、宗務当局に大学昇格を陳情した。期限最終日(7月31日)に文部省に申請。翌49(昭和24)年4月、新制佛大は、仏教学部仏教学科のみの単科大学として誕生した。
まさに、薄氷を踏む思い。初代学長には、佛専校長だった小西存祐(ぞんゆう)(1886~1955)が就いた。

初代学長、小西存祐=佛教大学提供
通信教育に活路
ここからは、水谷の動きを軸にして佛大の歩みをみる。
水谷は、佛専を卒業して龍谷大へ進む。51(昭和26)年、23歳の時に学生の身分のまま、図書館書記として佛大に奉職した。
母校で、またも苦難を見る。
佛大に職を得た翌年の52年春、4回生までそろったが、学生総数は263人。定員総計の320人を大きく割り込んでいた。
「新制大学を、いかに育てていくか」
大きな光となったのが、50年から始めていた、働く人々のための通信教育講座だった。
「なんとか正規の大学通信教育に昇格させたい。教員免許も取れるようにすれば、モチベーションも高まる」
水谷は準備段階から関わった。53年4月、4年制の通信教育課程が認可された。翌年には、教職課程も設置された。
水谷25歳。自称「夢見る男」はその後、「滅私奉公」を「滅私奉校」と書き換えて、佛大一筋に歩む。
「心のデパート」と呼んで、京都・四条烏丸に四条センター(現在のオープンラーニングセンター=紫野キャンパス・15号館)を開設。「淡い恋の広場」とうたって、旧1号館の前庭をライトアップで美しく照らし、ベンチを整備する……。
そして、何にも増して、水谷が「仏教即社会福祉」の実践理念を世に発信していく、第一歩でもあった。
(関西支局・平田篤州)
佛教大メモ
新制大学になったのは1949(昭和24)年4月。現在は、紫野キャンパスと京都市中京区の二条キャンパスが主な拠点。仏教学部、文学部、歴史学部、教育学部、社会学部、社会福祉学部、保健医療技術学部の7学部15学科、大学院4研究科7専攻を配置している。
通学の学部生、大学院生は、合わせて約6200人。通信教育課程には学部・大学院を合わせて、約8200人が学ぶ。
学長は伊藤真宏。運営主体は、学校法人佛教教育学園。グループに京都華頂大、華頂短期大など。関連の社会福祉法人として、特別養護老人ホームを運営する和順共生会(京都市北区)がある。

