【花園大・中】仏教福祉で社会の要請に応える

2026年0324 福祉新聞編集部

終戦直後の京都は戦災被害こそ少なかったが、困窮者や行き場をなくした子どもらが駅や寺院の軒先にあふれた。
一方で世は着実に改まり、新制大学制度が発足。花園大学の前身、臨済学院専門学校(臨専)は、「今度こそは」と大学認可に向けて教員・学生が一致団結して臨んだ。
なかでも学生らの協力は献身的だったようだ。
<思い出されるのは臨専の学生が(文部省の)審査前になったら、毎日校舎を清掃して呉(く)れたことであった。(略)平生はいくら注意しても下駄ばきで上った学生だが、いよいよ審査前になったら全学の学生がわらだわしまで持ち出し教室を磨いて呉れた>(『花園大学三十年のあゆみ』)。
こうして、悲願の花園大学(花大)は1949(昭和24)年、仏教学部のみで誕生。運営主体は、学校法人妙心寺派教団に組織変更した。
学則の第一に、「仏教精神に依って人格を陶冶(とうや)し、人類文化に貢献する人物の養成を目的とする」と掲げ、目的達成のため、「実践禅学を履修しなければならない」とした。
実践禅学とは、座禅や老師との問答を通じて禅の奥義に迫ること。臨済宗大学、臨専時代を通じ、座禅修行は一日たりとも欠席が許されない必須科目であり、譲れない根幹となる教科だった。

二代学長に山田無文
初代学長は奥大節(おくだいせつ)(1889~1970)。翌年、山田無文(むもん)(1900~88)が2代目に就任。初の臨済宗大学出身の学長である。多くの著作や法話で一般人に禅を広めた、昭和の名僧でもある。
愛知県に生まれ、青年期に結核を患い、奇跡的に命を取り留めたのを契機に仏の教えに目覚め、臨済宗大学で学ぶ。
天龍寺に僧籍を置き、45(昭和20)年から臨専で雲水姿のまま教壇に立つ。学長に就任するも無欲恬淡(むよくてんたん)、気さくな人柄で教員・学生から慕われた。28年間の在任中に、校舎建設や学科増設、移転を実行し、今の花大の礎を築いた。
設立当初の花大の財政事情は、「赤貧洗うがごとし」。
それに輪をかけて50(昭和25)年、近畿・四国を襲い、死者・行方不明者500人以上の被害をもたらしたジェーン台風の直撃を受ける。
花大では、本館講堂が大破。巨額の補修費を工面するため、無文学長自ら草鞋(わらじ)を履き、学生とともに托鉢した。

山田無文学長

一方、戦後の困窮は、地方の末寺も同じだった。寺だけでは生活できず、道路工事の日雇いで糊口をしのぐ僧侶がある一方、福祉事業に光明を見いだす者もあった。
51(昭和26)年の教団機関紙『正法輪』によると、保育園を運営する岐阜県の尼僧から「尼僧教育の一大改革を要望して居ります」という声や、社会事業を営む愛知県の住職から「社会事業に対する一切の研究を希望する(宗団に社会事業なきは、宗団としての価値なし)」という声が届けられている。
40年代、国は福祉3法(生活保護法・児童福祉法・身体障害者福祉法)を相次いで整備。51年(昭和26)年、社会福祉事業法が整い、福祉の主要なプレーヤーに、行政の福祉事務所や社会福祉法人がなっていく。

仏教福祉学科の誕生
こうした機運のなか、花大は64(昭和39)年、定員50人の仏教福祉学科を増設する。仏教学部を、仏教学科と仏教福祉学科の2学科に。
「社会の要請に応ずるために同学部に仏教福祉学科を増設し、道徳的及び応用的能力の旺盛な社会福祉家を養成する」とした。
主任教授に迎えられたのは、西原冨雄(1902~81)。戦後の米軍占領下、京都の軍政部で厚生部アドバイザーを務め、福祉行政に貢献した人物だ。京都府の児童相談所長を務め、「里親里子調査」や「老年者の自殺調査」など先駆的な研究も行った。

西原冨雄教授

助教授には、京都の浮浪女児保護施設「北山寮」(現在の児童養護施設つばさ園=京都市西京区)の創設期に園長を務めた大江憲二(1911~88)や、常寂光寺(京都市右京区)の住職で、環境市民運動の草分けとして京都市の「空き缶条例」制定に尽力した長尾憲彰(1926~2012)らが加わった。
新学科の設置には、妙心寺派教団も期待を寄せた。同年の『正法輪』に、妙心寺の教学部長がこう書いている。
「住職専従が許されず、何等かの副業に従事するとしても、他の一足の草鞋は出来るかぎり宗門人にふさわしい草鞋であることが自他ともに望ましいことは申すまでもありません。『仏教福祉』を身につけて、その有資格者となり、宗門人にふさわしき社会的活動に献身していただきたい」

花園大学第一回卒業式

カリキュラム大改革へ
高度経済成長の中、大学進学を望む若者は増え、全国的に大学の定員増がはかられた。花大も例外ではなく、1966(昭和41)年、文学部を設置。宗門子弟だけでなく一般社会へ広く門戸を開いた。
仏教学部を改組し、仏教福祉学科は社会福祉学科に。花大は仏教学科、社会福祉学科、史学科、国文学科の4学科の文学部、定員150人(全学600人)の大学になる。
そのころ、70(昭和45)年の第2次安保闘争を前に、大学紛争の嵐が吹き始めた。大学の運営や授業の方法を巡り、学生が教授会や国に、改革を訴えて団交を繰り返し、学舎やキャンパスを70日間にわたってバリケード封鎖した。
73年、学生運動の矛先は社会福祉学科にも向けられた。
施設実習をする学生が現場で使う手引き書のなかで、施設利用者への「偏見」ともとれる表現が問題になった。
学生らの不満は一気に爆発。大学側の責任を追及し、担当教授らが辞任する事態に。翌年、社会福祉学科はカリキュラムを大きく改変する。
実習指導には学科の全教員が対応することにして、教員間の風通しを良くした。
教員を増員し、個人指導が可能な小人数の教育体制を敷いた。部落問題や心身障害者福祉論を新設し、人権教育も一層充実した。
画期的だったのは、「花園大学社会福祉懇話会」の設置だ。
福祉職に就いた卒業生を招き、教員、学生と交流する会である。「懇話会」は、社会福祉学科の方向性を示し、発展させる起爆剤となった。
77(昭和52)年、手狭になった校舎を今の所在地、中京区西ノ京壺ノ内町に移転し、大規模に整備。社会福祉学科も新体制で再出発した。

(関西支局・和田依子)

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