【同志社大・中】三巨峰「底辺に向かう志」

2026年0317 福祉新聞編集部

帝国議会開設(1890年11月)の10カ月前、46歳の若さで逝った新島襄(1843~90)。その背中を追う若者たちがいた。石井十次(1865~1914)、留岡幸助(1864~1934)、山室軍平(1872~1940)。のちに「同志社派の三巨峰」と呼ばれ、日本の福祉の草分けになった実践者だ。
まだ、大学になる前の英学校の時代。同志社は、新島精神によって、すでに「福祉の学び舎」になっていた。新島との接点に絞ってみる。

「新島」を書写、石井十次
石井は18歳だった。新島が「同志社設立の始末」などを公表した1884(明治17)年春。岡山の医学生だった。
3カ月後の夏休み。郷里の宮崎県高鍋に帰省する汽船の中で「同志社設立の始末」を読んだ。感動して、日誌に大筋を書写した。
そこには、同志社英学校設立の経緯が書かれ、「教育こそが、国を発展させる」という新島の熱情を読み取れた。
石井は、のちに日本初の孤児院となる「岡山孤児院」を開設し、「児童福祉の父」と呼ばれるようになる。その孤児救済の中心理念を「教育」においた。
「恵まれない境遇では悪の道への誘いもある。教育によって良心を守る」
そんな思いも、持っていた。
もう一つ、新島につながる思いがあった。ジョージ・ミュラー(1805~98)のブリストル孤児院だ。ブリストルはイギリス西部の港湾都市。ミュラーはそこで孤児院を開き、60余年の間に2000人以上の孤児の世話をした。
1886(明治19)年に来日して、日本各地で講演。その時、ミュラーを尊崇する新島の招聘(しょうへい)で、同志社礼拝堂でも演説した。
「神は孤児の父。祈りによって毎日の糧は与えられる」
牧師でもあるミュラーの敬けい虔けんな信仰に、心打たれた。
「日本のミュラーになる」
石井は、医学書を焼き捨てた。孤児救済に、一生を捧げる決意をする。新島と同じミュラーへの熱い思いが、人生の航路を定めた。

石井十次

非行少年に光、留岡幸助
留岡は18歳の時、岡山で洗礼を受けたが許されず、養父に座敷牢に入れられる。その後、養父のもとを離れ、1885(明治18)年、同志社に進んだ。
在学中に、イギリスの監獄改良家、ジョン・ハワード(1726~90)の伝記を読んだ。新島を「天下の大教育家」と敬った。
牧師になり、2年後の1891(明治24)年春、北海道空知集治監の教誨師(きょうかいし)として赴任。約2700人の囚人と1対1の面談を重ねた。
「8割は少年期に非行歴がある。幼少年期からの教育、環境が重要だ」
アメリカに2年間、留学。各地の監獄を訪ねて「人は刑罰によって善良になるのではない。家庭における陶冶(とうや)による」との思いを強めた。
帰国後の1899(明治32)年11月、東京・巣鴨の地に「家庭学校」を創設。小監獄のような感化院ではなく、ぬくもりのある「家庭学校」とした。職員が家族のように寄り添い、多くの子どもたちが社会に巣立った。
さらに、50歳になった1914(大正2)年8月、北海道・遠軽の地に3万坪の敷地を確保して「北海道家庭学校」を造った。
「厳しい大自然こそが、人を育てる。自然は差別しない」

留岡幸助

棺を担いだ山室軍平
山室も、15歳の時に養家を飛び出した。岡山から東京に出て活版印刷所の職工に。路上伝道で洗礼を受け、築地福音教会に通った。
教会で、20代の気鋭の言論人、徳富蘇峰(1863~1957)の講演を聞いた。蘇峰は新島の教え子だ。テーマは「品行がいかに大事か」。その中で、蘇峰は言った。
「京都に、品行を心身に十分に刻み付けた人物がいる」
恩師、新島だ。実は、山室はその時すでに、新島の言葉に触れていた。ジョージ・ミュラーの演説をまとめた、冊子の序文を読んでいた。
翌1889(明治22)年9月に入学試験を受け、200人中1番で合格した。ところが、金銭が尽きる。なんとか周囲の助けで入学できたが、食うや食わずの苦学が続く。伝え聞いた新島は言った。
「その青年に『まだ若いのだからしっかりやれ』と伝言してください」
山室は、その言葉を伝えられ、「未熟なのだからしっかりやれ」と受け止めて、生涯の教えにした。山室は、新島の葬儀で、他の学生と一緒に新島の棺を担いでいる。のちに、こう回想した。
<先生の最後の亡骸(なきがら)の重さのほんの一小部分を、肩に感ずる事ができた事を、生涯の光栄として居る……>
その後、同志社を中退。石井十次を通じて救世軍を知り、入隊して「救世軍の山室か」「山室の救世軍か」と言われるほどの活躍をする。

山室軍平

夜明けを駆ける
留岡や山室に続く、多くの同志社人がいた。
1893(明治26)年に入学し、卒業後、牧師として貧民街などで伝道活動を行い、のちに職業紹介事業などに貢献した八濱(はちはま)徳三郎(1871~1951)。八濱は、同郷(岡山)の留岡の「基督教新聞」の編集を手伝い、内務省の「細民調査」にも従事。1920(大正9)年に「下層社会研究」を刊行した。
同志社女学校出身の井深八重(1897~1989)は、ハンセン病患者に生涯をささげ、1975(昭和50)年、米国タイム誌に「日本のマザーテレサ」と紹介された。
大阪港の艀(はしけ)で暮らす人々の貧しさを知り、水上隣保館をつくった中村遥(1903~77)は、留岡、山室の晩年に始動したセツルメント(隣保事業)の実践者だ。
そんな一連の群像を「同志社派」と呼んだのが、文学部の教授だった小倉襄二(1926~2014)。「夜明けを駆けた」とも形容した。
小倉は、同志社派のモットーについてこう言った。
<底辺へむかう志>

下に出世する
底辺。それは、いつの世にも歴然としてある。
幕末維新の社会構造の変化は、容赦なく、弱きもの、小さき者に襲いかかった。士族の没落、都市部の貧民街、零細工場の労働者……。
石井の孤児院創設、留岡の監獄改良、山室の公娼制度全廃は、そんな底辺に光をともす社会改革だった。
文学部の教授だった井垣章二(1927~2007)は、「社会福祉の先駆者たち」(筒井書房刊)の「はしがき」で、次のように書いた。
<同志社は、輝く頂上へ登るのではなく社会の底辺におりて、その闇を照らすほのかな光となる「下に出世する人物」を数多く生み出した>
そして、こう結んだ。
<その元の泉、淵源は、新島襄なのである>

(関西支局・平田篤州)

写真:石井は石井記念友愛社、留岡、山室は同志社大学提供

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