【明治学院大・中】「暗」から「光」の時代へ

2026年0310 福祉新聞編集部

高等学部に社会科のできた1928(昭和3)年は、全国に特別高等警察が置かれた年でもあった。社会運動や思想は押さえつけられていく。一方、その翌年には明治以来続いてきた困窮者に対する恤救(じゅっきゅう)規則に代わり、わが国初の救貧立法である救護法が公布(施行は32年)されるなど混迷の時でもあった。

変わる学科名
危険思想視される社会科への入学志願者は少なく、学内で廃止論さえ上がったという。なんとか持ちこたえたものの、学科名を「社会事業科」(34年)に変更。さらに軍靴の高まりに合わせるかのように、労務管理的なトーンを強める「厚生科」(42年)へ、その2年後には「経営科」と名称を変えていった。
それでも学生たちは東京の下町で貧しい子どもたちに対するセツルメントを展開。慶應大、上智大、大正大、日本女子大、立正大、日本大、東京帝大、同志社大、そして明治学院の学生有志により「学生社会事業連盟」が組織され、明学のチャペルで「盛大な発会式」(朝日新聞1936年11月8日)を開き、「高い社会事業精神を涵養(かんよう)し……以(もっ)て邦家に貢献せん」と宣言している。国への協力的な一面を持っていたが、解散させられてしまう。
弾圧下、さまざまな活動がしぼんでいく。社会調査に歩いた学生も、反戦平和の論陣を張った賀川豊彦も治安維持法違反容疑で身柄を拘束されている。学院の外国人宣教師のある者は祖国へ戻り、ある者は日本国内の収容所へ送られるなど、福祉は〝厳冬期〟であった。その中でも宣教師のエベレット・トムソン教授(1899~1979)は帰米後、日系人強制収容所で奉仕活動し、相談に乗った。

ヘボン像=白金キャンパス

戦争から平和へ
「空襲があったら、教科書とカバンだけは持って逃げろ」。講義中の不安や心配は終戦(1945年8月)とともに過去のものに。戦災こそ免れたものの、暖房のない校舎は寒く、コメ持参を求める下宿もあった。食料難から翌46年の夏休みは1カ月延長の掲示が出たことをOBは覚えている(『記念樹とともに―明治学院大学社会学部50周年特集』79年)。
学生は徐々に戻ってきたが、少人数の講義はよくあったらしい。親しくなり、朝鮮引き揚げ直後に東京・上野の地下道で浮浪者と生活を共にした教員の体験話に学生は身を乗り出す。社会調査のため廃品回収で生計を立てる人と暮らした学生もおり、教える方も教えられる方もたくましい時代であった。
戦後の学制改革に合わせ、それまでの専門学校から大学に昇格したのは49(昭和24)年のこと。英文学科、社会学科、経済学科の3学科を持つ単一の文経学部でスタートした。いずれも勤労学生のために夜間部(第2部)を置いて。

沖縄から
活気づき始めた白金キャンパスにアメリカ施政権下の沖縄留学生の姿もあった。那覇市に住む元沖縄県職員、屋我良明さん(90)。那覇高校を終え、4年ほど米軍施設などで働いたあと、本土渡航のパスポートとドルを手に54(昭和29)年、社会学科の門をくぐった。
その頃、沖縄からは日本社会事業短大(東京・原宿)への研修生派遣制度もあり、当初そちらを受験するつもりだったという。ただ、社会学科なら明学と聞き、見学に。「重厚な校門や礼拝堂(チャペル)の落ち着いた雰囲気に、気が変わった」。
確かに現存する礼拝堂(ヴォーリズ設計で16年落成)のほか、インブリー館(現・歴史資料館)や記念館(1890年竣工の元神学部校舎・一部改修)、ライシャワー館(故・ライシャワー元駐日米大使が16年ほど宣教師の父と生活した宣教師館。1965年に東京都東村山市の系列中高に移築)もあり、明治洋風建物はエキゾチックだったろう。

白金の深い緑
屋我さんの気に入った点がもうひとつある。「幼い者の目には森かと見まがう」(『ライシャワー自伝』文藝春秋、87年)ほどにまだ深かった大学や周辺の緑だった。米軍の砲火で焦土と化したふるさとに比べ、「新鮮で明るい気分になった」という。「島崎藤村作詞の校歌碑のそばで校歌を歌った。チャペルアワーに教授の説教を聞き、讃美歌も歌った。夜帰るとき、電光に輝くチャペルは幻想的でまぶしかったですね」。
卒業し帰島。児童福祉司として琉球政府に職を得た。米軍基地へ忍び込み、山積みの軍需物資を盗んでは「戦果だ」と自慢しあう非行少年の身元引き受けに児童相談所は追われた―屋我さんの上司はそうつづっている(『沖縄の児童福祉の歩み』幸地努著、1975年)。
福祉の制度も施設も人材養成も遅れた沖縄へ、日本政府は技術援助名目で大学教員や厚生省の担当者、福祉施設の管理者ら講師を次々派遣している。その一番手(65年3月)は本学の福田垂穂教授=児童福祉・グループワーク論=であった。
その時分の超人気教授は賀川である。「女性は社会学など学ばんでもよろしい」という父親の反対を押し切って明治学院へ入った元副学長の山崎美貴子・名誉教授(86)=家庭福祉論・ソーシャルワーク論、神奈川県立健康福祉大第2代学長=も受講したひとり。夜間部の専任教授だったが、「昼間の学生も聞きに来て、教室は満員。大きな声で、両手を広げながらの講義でした。まだ2、3年生の頃で、内容を十分理解できないところもありましたね。でも、キリスト教に基づく、人としての尊厳を教える校風は昔も今も変わっていません」と記憶をたどってくれた。

礼拝堂(左)と記念館=白金キャンパス

(横田一)

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